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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

女神の髪は 黄金の絹糸

作者: 深海聡

 私はその日、いつも通り見上げた空に、いつも通りじゃないものを見た。

 親方ぁー。空から美女が降って来るよ?

 思わず現実逃避した私の残念な脳味噌には、ムキムキマッチョな髭の親父と健気な少年少女の残像がちらついていた感じだけど。

 でも、この美女、生身みたいですよ。

 どうしたもんかな。

 どうしたもんでしょう?

 こういう拾得物は、警察と保健所とどっちに届けたものでしょうか。

 ネット検索したら分かるのかなっていう、私の妄想もむなしく。

 つねって無理矢理引き延ばした頬は、かなり痛くて思いっきり涙目になった。

 行きて戻る波は私の心など知らぬげに穏やかそのもので、海の上には満月がほの白く輝いている。

 その月を背景にして重力を感じさせない軽やかさで舞い落ちて来る美女は、漆黒の髪に深紅のドレス。

 不自然に切り裂かれ、元の形の分からないそれは、ドレスと同じ色の液体に濡れているようだった。

 某有名アニメが、途端にサスペンスでファンタジーな別系統の物語に変化する。

 それ以前に。


「ううう、母上ぇ。客人って、まんまマロウドじゃないですかぁ!」


 数日前、せっせと旅支度をして荷物持ち兼世話役兼お目付け役の父を引き連れて颯爽と旅立って行った母の言葉が思い起こされる。


「なぎナギ凪ちゃんー」


「なぁに、母さん。その変格活用みたいな呼び方。また何か企んでるの?」


「んー。私っていうより、他の何か? お母さんたちの留守中にお客様が来たらね、ちゃんとお相手してちょうだいねっていうだけのことなんだけど」


 おどけて誤魔化すように笑った母に、凪は胡乱な目を向けた。


「またそうやって誤魔化すー。良いですけど、良いですけどねー。どうせ留守番だし、私は名所旧跡巡りなんて渋い趣味に付き合っているより、青春を謳歌することに忙しいので」


「うん、放送研究会だっけ? 青春は大事よー。思いっきり楽しむがいいさ、モラトリアムを。嫌でも来年は就活と卒論が待っているからね~」


 現実を突きつけて来る母の言葉を半ば聞き流して、不満げに口をとがらせていた自分のうかつさを呪いたくなる。

 気安い調子で与えられた警告を見落としたのは、私自身だ。


「運命っていうものは、突然思いもよらぬ形でやって来るからさぁ。ちゃんと、掴み取るんだよ?」


 自分自身の、望みを。

 そう言って笑った母の言葉の重みを、私は散々噛みしめる羽目になるなんて。

 思ってもみなかった。

 確かに、うちの家系はちょっと変わっているらしいとは思っていたけれど。

 これって、ちょっとばかりラノベすぎるシチュエーションじゃないですかね?






「イッテテテ……クッソ、エドアルドのヤツ、よくも思いっきりブッ放しやがったな。あのクソ馬鹿力野郎覚えてやがれよ」


 地を這う低音で毒づいたところで、パタッとごく軽い、何かが落ちる音がしてルチルは視線を上げた。


「あ……」


 逆光になって見えづらいが、陽の光を背にして誰かが立っている。

 ぴったりしたズボンに、丈の長いシャツのような衣を身に着けているのだろう。

 そのシルエットから、まだ若い女のようだとルチルはあたりをつけた。

 軽い音を立てて落ちたものが、コロコロと転がって来る。

 それは草のようなもので出来ている床らしき場所に、少し硬めの布団を敷いて寝かされているルチルのもとに、吸い込まれるように転がってきた。

 それを手に取って、ルチルは目をすがめる。

 銀色の円盤らしきものは、ルチルの姿を映す。

 そこには漆黒の髪も、深紅のドレスも、ましてや美女など映っておらず。

 茶色とくすんだ金の中間のような中途半端な色の髪に、これもくすんだ青緑のような色の瞳の優男が、不機嫌そうに見つめ返している。

 どうやって着せたのか、布を縫い合わせて仕立てられた前開きの衣を幅広の厚地の布で、下腹辺りでくくって着付けてあるらしい。

 初めて見るものの数々に、血を失い過ぎて本調子からは程遠い体が不調を訴える。

 ルチルは、二日酔いのおじさんのような不景気な表情を浮かべて片手で顔を覆い、深々とため息をついた。


「どうしてこうなった。つーか、ここどこだよ……アイツ、マジで絞める」


「あのー。そろそろ、事情、っていうか状況とか身元とか確認していいですか?」


 シルエットだけだった女性が近づいてきて、床の上にひざを折って座り込む。

 掛けられた言葉が理解できる言語だったことに、ルチルは目を見開いた。

 遠慮なく間合いに入ってきた相手に、ルチルは反射的に飛び起きて距離を取った。


「あー、多分警戒の必要はないと思いますよ? 私は丸腰ですし、そもそも非戦闘系な人間で武術とかからっきしなので」


 緊張感のない様子でひらひらと手を振る女に、ルチルは暫くにらみ合った末に、その場に腰を下ろす。

 本調子ではない状態でいつまでも気を張っていることも疲れるし、どうこうする気があるならとうに何らかの処置はされているはずだと、拘束ひとつないどころか、丁寧に身支度を整えられて床に寝かされていたらしい自分自身の状態に思いを馳せる。


「あなたが何者かは知りませんが、ここは恐らくあなたにとっては異界に当たる場所で、月か水か鏡を媒体とする何らかの呪法によってこちらに迷い込んだ状態、というのが今私が説明できる全てです」


 にこりと邪気のない笑みを浮かべて妙に慣れた様子で次第を語る女性に、ルチルは座り直し、背筋を伸ばす。


「では、あなたは俺の恩人ということになるのか」


 敵に追われ、切羽詰まった状態で手近な安全地点にエドアルドに放り込まれた先が、どうやら異界に通じていたらしいと。

 それはないだろうと、ルチルは表面上は平静を装いながら心の中で大いに毒づいた。

 恐らく、古いか新しいかは分からないが何らかの道らしきものの痕跡があったのは確かなのだろう。そうでなければ、世界の境界を越えて何の準備もなしにおいそれと飛ばせるはずもない。

 その上、この女性の落ち着いた様子は“有り得ること”として認識されているということに他ならないとルチルは結論付けて、再びため息をついた。


「私は凪と申します。この地に開いた“穴”を守る者でございます」


 凪と名乗った女は、床に両手をついて頭を垂れる。

 それはこの地での、正式な作法なのだろう。

 相手の様子から、礼節をもって接しているだろうことが察せられる。

 最悪な状況の中でも、身の安全と意思疎通と休息が確保できる目途が立ったのは、ひとまずは喜ばしいことなのだろう。

 喜ばしいことではあるのだが、状況的にはさほど見通しが立ったとは言い難い。

 凪の流れるような所作を無感動に眺めながら、ルチルは困ったことになったと眉を寄せた。


「本来ならば、私の母がより詳細を説明できるはずなのですが、生憎留守にしておりまして、私が説明をさせていただきます」


 顔を上げた女性を見つめたまま、ルチルは思案する。

 何となく、どこか見覚えがあるような気がするのだ。

 長く伸ばした癖のない黒髪、同じ色の瞳。


「ああ、そうか」


 ルチルは不意に、思い出した。

 いつか見た、一族が隠し伝えてきた伝承。

 劣化しないように何重にも術を掛け、秘匿されてきた絵姿の女性とよく似た容姿。


「異界の、巫女姫」


 ルチルが呟いた言葉に、女性は淡く微笑む。


「その、娘ですね。どうぞ、よろしくお願いします。お客人」


「俺のことは取りあえずルチルとでも呼んでくれればいい。見た目が、こんなだからな」


 何気ない仕草で、ルチルは髪に無数についているように見えたビーズのような装飾の一つを、するりと外す。

 すると何か薄い膜のようなものをめくり上げるような感じで、目に見えない何かが消え去ったのを凪は肌で感じた。

 その感覚に息を飲む暇もなく、ルチルの姿が変化する。

 くすんだ茶色のような金のような中途半端な髪は、本物の黄金のように輝く金に。

 瞳は、澄んだ湖のような複雑に揺らぐ青と緑に。

 その姿は、月光に浮かぶ謎の美女よりもよほど神秘的で、彫像か絵画か、そういうものでしか表現できないものが生身になったとしたらこんな感じかと、凪は妙な感動を覚えた。


「俺は古い血を引く一族の末裔、風と水と光の術者、リュプス=エドワルド・アントス=プルイーナ。この見た目じゃ目立つもので、姿かたちを隠したり偽ったりするのは俺の十八番(おはこ)だ。世界でも数少ない精霊術師で、お尋ね者だったりする。まぁ、お尋ね者の件は濡れ衣だったんだけど。……とにかく、危険人物ではないと思う」


 そんな生きている芸術みたいな存在が、そこら辺のお兄ちゃんみたいなフランクな口調で人生の不幸を煮詰めたみたいな実に重い話しを何ということもないことのように語る。

 しかも、なんか光ってる。

 うっすらと光を纏って見えるのは、気のせいじゃないと凪には分かった。

 息を吸い、吐いて目を閉じる。

 意識を凝らせば、そこに感じる。

 水と、風と、光。申告通りかと、安堵する。

 意志を持ち、目の前の人物を守ろうと傍にいる存在。

 世界に開いたから穴から零れ落ちて、弱まった力でも離れまいと繋がりが切れてしまわないように不安げにそこに在る存在。

 凪がいつも身近に感じているものとは、少しばかり気配が違うが、これも精霊という存在なのだろうと思う。

 凪が探るのと同じように、ルチルにも探られていると感じる。

 手で触れられるのとは違う感覚に、少しばかり緊張する。


「水と闇の気配か」


「ええ。本来巫女の務めは浄化と安寧をもたらすこと。特にここには異界へと空いた穴がある。世俗に忘れられても、その勤めをおろそかにすることはならないのです」


 相手のペースに飲まれないように、精一杯の外面を張り付けてにっこり微笑む。

 友人Aの言い分によれば、凪は黙っておっとり微笑んで――要するに、質のいい猫をかぶっていれば良家の子女ぐらいには誤魔化せるとかなんとか。

 改めて、失礼極まりないと思うけれども、遺憾ながら事実であるのは凪自身も良く分かってはいる。

 きわめて質のいい猫を育成させてくれた母上には感謝のしようもない。

 関係のないことをとりとめなく考えているうちに、探られる気配が遠ざかる。

 目を開ければ、じっと見つめ返す不思議な色合いの瞳に魅入られそうになる。

 相手も同じ感覚があるのか、視線が逸らされる。


「どうやら、俺たちは波長が合うらしい。この感触なら、道を開けるかな」


 後半は消えそうな呟きになった言葉に、凪は眉を寄せた。

 傷だらけだったはずなのに、帰らなければという焦りを感じる。

 恐らく、同じ世界の中ではなくこんな異界に安全地点が設定される状況というのは、間違いなく非常事態で十中八九命の危険があるはずだ。

 突然戻れば、下手をすれば状況把握が出来る前に死にかねないほどの状況のはず。

 凪は、思わず手を握り締めた。


「戻らなければ、ならないのですか?」


 聞く必要のないことを思わず声に出した自分に、驚く。

 それよりももっと大事なのは、凪では力不足で道を開けない可能性が高いこと、確実な方法を知っているのは母だけであること、それでもどうしてもというのなら、何が起きるか分からないこと、そういった現実的な問題を伝えることだったはずなのに。

 これが、情が移るということなのかもしれないと思った。


「そうだね。それ以外の選択肢は、ないかな。そうしなければいけない理由と、意義と、目的がある。それに……俺は、自分の意志で生きて死ぬって決めているんだ」


 視線を落とした彼の、組み合わされた手にグッと力が入る。

 透き通った湖のような瞳は、ただ静かで揺らがない。

 そこには憎しみも痛みも悲しみも、そういう感情は何もなかった。


「ごめん、しゃべり過ぎた。……でも、俺は恵まれていると思ってるよ。仲間がいて、帰る場所があって、生きる目的があって、毎日を必死に生きている」


 あえて明るく言い切ったルチルは、姿を変える術式を展開し直すと、何事もなかったかのように明るい笑みを浮かべた。

 彼の笑顔は、ただ透明で何の色味も感じなかった。

 明らかにこれ以上踏み込むなという拒絶に、心が竦む。

 凪にはそれ以上、何かを訊く勇気が持てなかった。


「だから、手伝って。俺はあの場所に、戻りたい」


 うっすらとそばかすの浮いた人懐っこい印象の青年は、真剣な表情で凪をじっと見上げた。

 凪は、黙って頷くことしかできなかった。










 乾いた大地を、風を味方につけて走り抜けていく。

 先を行くのは黒髪に、青い瞳の少年。

 日差しをよけるために巻いた布の隙間から見え隠れする、好奇心に煌めく無邪気な瞳。

 いつか世界を旅してみたいと語った、夕映えに滲む思い出。

 星を指さして、方位の見方を、空を見上げて日にちの数え方を季節、天候の見極めを語り合った。

 ある時は深い森を探索する。

 薬草の探し方、簡単な薬の処方の仕方、飲み水や食料の確保の仕方、野営の真似事。

 時には教育係を、護衛を、親を撒いて抜け出す。

 もっと広い世界が、書物の中に書かれた何かではない本物が見たい、触れたいと手を引く少年の手の感触を、忘れずにいる。

 息を切らし、心躍らせた冒険は既に追憶に沈んだ。

 視界が、真っ黒に塗りつぶされる。

 ああ、これは記憶だと思った。

 そう。

 裏切りはいつも人の形をしている。

 少年は青年になり、彼もまた優秀な精霊術師であり、君主となり、国と民を背負い。

 そして、裏切りにより殺された。


『リュー、君の忠告は正しかったよ。君は、生き延びて。この国を、民を、守って欲しい』


 血まみれで何とか転移して来たらしい彼は、そうして全ての責任と希望を託して逝き。

 残されたリューは血まみれの彼を抱えた状態で発見され、裏切りにより簒奪者となった。

 裏切りは重臣の仮面をかぶり、世を欺いた。

 民はその言葉に煽られ、国を支えてきた多くの精霊術師があるいは殺され、投獄され、国を追われた。

 いち早く襲撃者の手を逃れて逃げ出したリューは、同じように逃れた者たちを集めて組織を作った。

 裏切った一部の術者も含めて相手取ることは、困難を極めて。

 それでもようやく、リューは託された責任と希望をつなぐ相手を探し出した。

 それなのに。

 押しつぶされそうな悲しみと後悔が、のしかかって来る。


「もう少しだったんだ。やっと内偵が上手く行って、救出の手はずを整えたところで連絡係が追っ手をつけられた。俺には、どちらも見捨てられなかった」


 ルチルが、傷だらけで血まみれの手を握り締める。


「それでも、手をこまねいて失うのは一度で十分だ。万策尽き果てて救われないのは、俺とあいつだけで十分だと思うぐらいには、俺は欲深い人間なんだと思うよ」


 自分自身のもののように感じていた感覚が、感情が遠のく。


「俺の家族は、既にない。皆先に逝ってしまった。だから、もう心残りもないんだ」


 献身的で優しい、穏やかで朗らかだった母。

 子どもには厳格だが母には頭が上がらず、愛妻家だった父。

 おっとりのんびりした性格で、読書と刺繍が好きだった姉。

 剣の才能があり、格闘術もこなす少しばかり脳筋の兄。

 病気や事故、陰謀によって少しずつ気付かないうちに失われた。

 ようやく気が付いたのは、彼を弾き飛ばしてよこした満身創痍の兄と、ルチルが逃げる手引きをして追っ手を阻むためにそこに残った姉の背を見送った後だった。

 名残のように流れ込んできた悲しみに、胸を掻きむしられる。

 振り向いた彼の顔には、白い仮面。

 笑みの形に描かれた目の、その目元には涙。


「俺は、俺自身が選んだ役割を演じ切るだけだよ。それ以上、何も望まない」


 ひらりと身を翻した彼の姿が、黒髪と深紅のドレスの女性に変わる。

 グラグラと揺れる視界に気分が悪くなる。

 ぷつりと断ち切られる感覚に、夢から覚める予感がした。



「なんで、同調するかな。ホント、君って油断も隙もないよね」


 目を開けたらドアップで人外みたいな美貌が無表情に非難してくる上に、垂れた髪の毛のせいで余計に視界が狭いんだけど、これってどういう状況なんだろう。

 凪は二日酔いのように痛む頭に、思わず顔をしかめる。


「聞いてる? 記憶とか感情とか思いっ切り掻き混ぜられて、俺ってば今思いっ切り不機嫌なんだけどさ」


「聞こえてます。でも、不可抗力なんです。この家には大規模な術式が仕込んであって、番人としては入り込んだ存在を鑑別する必要があると言いますか……。私だって目覚めが最悪で、どうしたら良いか分かんないんですけど」


「あー。それは悪いことしたね、こちらの守りが厳重だから負荷がかかったかな」


 抵抗されたら拘束するつもりでもあったのか、圧し掛かっていたルチルがどいたことで凪はようやく一息ついた。

 役目だからという説明でやけにあっさり引き下がったルチルに、腑に落ちない思いを抱きながら凪は目元を覆う。

 頭が割れるように痛いのは、間違いなくルチルが展開した強い守りの中に入り込んだ後遺症だろう。


「大まかな状況は分かりましたけど、強く意識に焼き付いている記憶と感情ぐらいしか読み取らせていただけなかったので、それほど同調は深くなかったと思いますけど」


「…………そうか? いや、何でもない」


 深いため息が、聞こえた気がする。

 そういえば、どことなくルチルも憔悴しているように見える。

 凪はじっとルチルの様子を観察した。

 その視線に気づいたルチルが、視線を拒む様子で顔を逸らす。


「あの、ちょっとだけ力を流してみてくれませんか? 何だか熱っぽいので」


「悪いけど、今は無理。水なら出せるけど」


「そうですか。手っ取り早く水の力で冷やしてもらおうと思ったんですけど、ちょっと無理そうですね」


 残念と続けて呻きながら起き上がった凪は、手近に用意してあったパーカーを羽織る。

 もちろん、身近に慣れない男性がいるのだから最低限Tシャツとズボンのまま寝ているので特に問題はない、はずだ。

 ふらつく足を踏みしめて、何とか歩いてみるがどう見ても歩き方が覚束ないのを見かねたルチルが、やや乱暴にその手を取る。


「あれ、すみません」


「本当は気が進まないんだけど、しょうがないだろ」


 ふぅ、と息を吐いて、ルチルがやや強めの力を流し込んで来る。

 その激流に攫われるように、凪は思わず意識を手放した。


「おっと」


 あっけなく意識を手放して眠りに落ちた凪の体を受け止めて、ルチルは小さく頭を振った。

 感じていた不調が流れていった力と共に解消して、ルチルは凪をベッドに寝かし直してもう一度振り返る。

 見た目に反して、精霊術師の寿命は長い。ルチルも、見た目の年齢の3倍以上は生きている。

 その分精神戦は得意な方だったし、術の掛け合いならば大抵の者には勝つ自信があった。

 古くて強い術式は、時にその根源に接する存在であることもあるから、一概にルチルが負けたということにはならない部分もある。

 それでも、危うかった。

 もう少しだけ、夢の中に他者がいることに気が付くのが遅かったら全て根こそぎ暴かれていただろう。


「本当に、質が悪いと言うかなんと言うか」


 愚痴っぽく呟いた言葉の語尾が、情けなくも尻すぼみに消える。

 夢の中で感じた温かな力の名残が、まだ冷え切ったはずの深みを温め続けている。

 手放すことだけを考えていた未来を、繋いでみたいと望む欲が息を吹き返す。

 あの日、果たされなかった約束と共に一度は死んでしまった感情。


「だけど、悪くない」


 こんな切っ掛けがなければ、自分自身も気が付かないうちに死に急いでいたのだろうと苦笑する。

 悲しみと、苦しみ、憎しみ、恨み。負の感情ばかりが積み重なり過ぎて、負って癒えることのない傷が痛くて痛くて忘れていたのかもしれない。

 闇は安息をもたらし、安息は傷と痛みを癒す。

 眩い光は嘘や悪事全てを白日の下にさらすけれど、時に全てを焼き尽くす力にもなる。

 過ぎた力に振り回される時に、人は諸刃の剣で自分自身さえも切り刻む。

 愚かで哀れな生き物だと、かつて恩師が戒めた言葉を思い出す。

 その背を預けられる友を、仲間を、家族を顧みるべし。

 そう言葉を掛けてくれた恩師も、この手で荼毘にふした。

 失いたくないと思うものは、気付いた時にはこの手をすり抜けて消えて行ってしまった。

 だからもう、何も残っていないと思っていた。

 それでも失ったはずのものは、まだ記憶の中にある。

 触れていた感触もまだ、覚えているのに。痛みを伴う記憶だからとなかったことになどしたらきっと悲しむだろう。

 そういう人たちだった。

 返しきれないほどのものを受け取ってそのまま切れてしまった繋がりだから、なお一層絶ち切れた痛みに泣き叫びたくなる。

 忘れたつもりだった痛みは、忘れ得るはずもない。

 それを認めることが難しくて、ずっとここまで走ってきてしまった。

 だけど、まだ間に合う。きっと間に合うはずだ。

 生きていれば、終わりじゃない。

 このままでは終われない。


「戻らないとな」


 失われていないものも、まだそこにある。


「言い訳を聞いた後は、きっちり落とし前をつけなきゃな。異世界旅行までプレゼントしてくれたんだ、さっさと雑事に片を付けて馬車馬のごとくこき使い倒してやろう。間違っても基礎をおろそかになんぞ出来ないように雑用から重要事項までガッツリ働かせてやろう」


 クククとひとりで悪い笑みを浮かべた後、ルチルは階下に降りてそのまま窓の向こうに広がる海を見つめる。

 凪いだ海に、岩陰が黒く映える。それを見るともなしに見ながら、風を掴んで舞う海鳥の鳴き声に耳を澄ます。

 吹き渡る海風に、遠い日々を思う。

 いつか立てた計画を一緒に熟そうと約束した人は失われても、記憶はまだルチルの中で生きている。


「分かってるよ。俺はまだ、生きてるし生きていく。忘れてないよ。約束したもんな」


 穏やかに寄せては返す波を、砕ける波しぶきを、ルチルは日が傾くまでじっと見ていた。









「で、どうしても戻ると仰るのですね?」


 何ごともなかったかのように夕日が沈み切る頃には起きてきた凪が、確認するように念を押す。

 その顔には明らかに困ったと書かれていて、ルチルは嫌な可能性に思い至った。

 この明らかに若そうな術者は、ルチルをあちらに返すための明確な方法を知らないのではなかろうかと。


「ただ通り抜けて元の世界に戻るだけならば大して大変ではないんです。穴は開いたままですし、まだ道は繋がっているので引っ張られるままに落ちる感覚に似ています。ただ、場所と年代の特定が難しくて。触媒になるものがあれば良いんですが」


「ああ、なるほど。これで良いかな?」


 ごく軽い調子でルチルが差し出したものを覗き込んで、凪は顔をひきつらせた。

 小袋の中、布に大切そうに包まれてそこにあったのは、この時代、まずはお目に掛らないようなもの――血まみれの髪、つまりは生々し過ぎる痕跡が残っている誰かの遺髪らしきものだ。

 触ればただでは済まなそうな雰囲気を醸し出しているいかにもな代物に、凪は本気で泣きたくなった。

 非日常感が満載過ぎて、拒否すら出来ない重い空気を感じる。


「これと同じものを持っている女性がいる。そこに、俺の友の遺児もいるはずだ。メルは賢く立ち回り、デュンを守っているだろうから」


 今朝までのどこか厭世的で退廃的な雰囲気とは打って変わって、生きている人間らしく感情を覗かせているルチルは、何かを噛みしめるように手にした髪に触れながら、懐かしむような痛みをこらえるような表情をした。

 その変化に、凪は目を見張る。

 印象というものはあてにならないらしい。

 今のルチルは、相変わらず神がかり的に造作は整っているものの、きちんと生身の人間に見える。

 よく見れば、目元が少しだけこすれたように赤い。

 今のルチルは、ただ役割を演じるためだけに自分を使い潰す抜け殻じゃない。

 意志を持って、きちんと生きている。

 今もう一度その心に触れたら、彼はもう仮面などつけずに穏やかに微笑んでこの手を引いてくれそうな、そんな気がした。

 そうして目にする景色は、きっと泣きたくなるぐらい穏やかで美しい記憶だろう。


「どんなに深い闇も、いずれ朝が来るように必ず終わりが来る」


 ポツリと呟いたルチルは、背筋を伸ばして前を向いている。

 その横顔は、自分が辿り着く先が見えている人の、目的地が見えている人の横顔で。


「俺は、光の術師だ。望まれるなら、ごみや靄のような陰りなどいくらでも払い、焼き尽くしてやるさ」


 拳を握り、胸に当てる。

 祈るように胸に抱くのは、何度も口にした“約束”なのだろう。

 穏やかな表情に反して、表現しづらいほど好戦的に、ルチルは怖いぐらいバチバチしていた。

 それを見て凪は、光の術師って帯電体質なんだと、遠い目になった。

 家に対術式用の結界があって良かったと、本気で安堵する。古い日本家屋は良い感じの焚き付けまっしぐらだから、放電には弱いのだ。


「あの、ひとつだけご了承願いたいのですが」


 凪は咳払いをして、あらかじめ言っておかなければならないことを伝えることにした。

 かなり分かり易く盛り上がっていたルチルの視線が凪に向き、その表情が胡乱なものに変わる。


「ここまで来て戻れないとか、言わないよね?」


 言い淀む凪の言葉を、無言の圧力でルチルが促す。


「大変申し訳ないのですが、私の力では通り抜ける人と同行しないと術式が安定しないんです!」


「え?」


「帰せることには帰せるんですが、不安定要素を抱えて単身強行するか、安定するけどお荷物を抱えてっていう二択だったりします。本当に、未熟でごめんなさい!」


 半分涙目になった凪を、ルチルがマジマジと見つめる。

 その表情が、みるみる渋いものに変わる。

 明らかな渋面になったルチルが、困り切った様子で眉を下げ、片手で顔を覆う。


「それ以外に方法がないならば、もうそれは絶対条件というものでしかないよなぁ」


「本当に、スミマセン」


 凪を頭の先からつま先まで二往復ぐらい見て、再度ルチルはため息をつく。


「俺の傍から離れたら、瞬時に消し炭になると思って引っ付いていることだね。それ以外はもう、何も言えない。善処するけど絶対じゃないし。俺は万能じゃないから」


 更にもう一度ため息をつくと、ルチルは困ったような笑みを浮かべて凪の頭をポンポンと軽く撫でた。


「じゃあ、準備しようか」


 ルチルの笑みに励まされて、凪は顔を上げる。


「はい、喜んで!」


 足取り軽く走り去っていく凪に、ルチルは苦笑を浮かべ、凪の頭を撫でた己の手をじっと見つめた。









 空には欠け始めた月。

 それは、開いた穴がその分閉じたことを表す。

 閉じていく繋がりを開き、安定させるには満ちていく力に合わせた方が本当は効率が良い。

 凪もルチルもそんなことは百も承知だったけれど、早く戻らなければと気が急くルチルは、情けないことに焦る自分自身をなだめ、表面上だけでも取り繕うだけで精一杯だった。

 家の前庭にしつらえられた石畳に、水を打って清める。


「そういう服装で構わないのか?」


 丈夫で地厚なズボンに、長袖の上着、トレッキングブーツを履いて現れた凪に、ルチルが片眉を上げる。


「本来なら儀式には正式な装束を纏うべきなのですが、その服装では行動に支障が出そうなので」


「なるほど、理解が早くて助かるよ。ただ、その服装だと誰かと出くわした時には言い訳が利かないだろうな」


 凪の服装を頭からつま先まで何往復も興味深そうに観察しながら、何気ない様子でルチルが呟く。

 少しも困ったり残念そうな様子がないルチルに、凪も軽く頷く。


「違和感のない服装を用意しろと言われても、服飾文化が違い過ぎて多分無理なので諦めてください」


 当然のことのように答えた凪に、ルチルも小さく頷いて笑みを浮かべる。

 凪が言うように、ルチルは初対面から一度も凪が丈の長いスカートをはいているのを見たことがないと思った。

 確かに、裾が長い装飾の多い服はそれだけで行動を妨げる。

 しょっちゅう着ていることになっているドレスのことを考えて、ルチルは妙に納得した。

 あれは無理だ。実際にそれが出回っている国に生活しているルチルも、あれを実際に身に着けては歩き回るのすら不可能だと早々に諦めた代物だ。

 その上、見たこともない木と草で作られたこぢんまりした家屋。構造的にも、あまり適さない気がするとルチルは思った。

 半分以上物思いに沈んだまま、何気なくルチルはエスコートをするような気分で手を差し出す。

 差し伸べられたルチルの手に、一瞬戸惑いながらも凪が手を重ねる。

 凪の手を大切なもののように柔らかく握って、ルチルは無意識に笑みを浮かべた。

 月光に照らされたその笑顔があまりにも柔らかで穏やかな笑みで、凪は一瞬息を忘れた。

 瞬きの間にルチルの表情が改まる。


「いざとなったら手はある。……じゃあ、始めようか」


 何もないところに場を整えることに比べたら、整えられた場に力を流し込んで、安定させること自体は難しいことではない。

 それを確約できないのは、凪が修行中で力の扱いが不安定なのと、一度も道の向こうに客人を帰した経験がないからだ。

 同行するのであれば、微調整ぐらいはできる。

 それに。

 どうしても、見届けたくなった。

 足手まといになるかもしれない。

 それでも、放っておけなかった。

 引き出された力が固定された術式に染み込んでいくにつれて、乱された場に風が起こる。

 バチバチと空気が帯電し、局地的に嵐がやってくる。


「ディルウィン・アスル・レネ=ライピュスまたはメリンダ・レイラ=ライピュスの元へ」


 ルチルの手から、遺髪が零れ落ちる。

 そこから細い糸のように伸びた力が、釣り糸のように行く先に延ばされていく。

 それが何かに引っ掛かったような手ごたえに、ルチルは繋がった糸の先が切れないようにその先を縫い留める。


「よし、繋がった」


 ルチルの唇の端が弧を描き、伸びる糸が途切れないように暴れる力を調整する凪の額に、汗が浮かぶ。


「跳ぶから、つかまって」


 強い力で手を引かれて引き寄せられ、息を飲んだ凪が思わずルチルにしがみついた瞬間、2人の姿が掻き消える。

 後には煌々と輝く十六夜の月と、何事もなかったかのような静かな夜の庭だけが残された。




「ナギ、どうやら成功だ」


 “穴”から落ちた衝撃に意識を手放した凪を軽く揺さぶって、ルチルは着地点の暗がりに目を凝らす。

 そこは石造りの塔のようで、蝋燭の炎を掲げた女性が顔色を変えて歩み寄るのと、ルチルが立ち上がるのはほぼ同時だった。


「リュン、どうして来たの? ここは危険なのに。それに、その人は誰?」


 小声でルチルを叱る女性は、明るい茶色の髪に深い緑色の瞳をしていた。

 少し釣り目がちな目も、ふわふわとした巻き毛もどことなく育ちのいい猫を彷彿とさせる。

 簡素な、でも明らかに仕立ての良さが分かるドレスを纏った彼女はルチルにとって幼馴染であり、亡き友の妻となった人だった。

 ルチルの肩越しにその人を見上げながら、凪はルチルの記憶の中で見た人だなとぼんやりと思った。


「メル」


 ルチルの背中にくっついたままの凪は、その人を前にしたルチルの背中に力が入ったのを感じた。

 言葉を選ぶ僅かの沈黙が、酷く重く感じる。


「準備が整った。デュンは君が守っているんだろう? ここを出て、この国をあるべき姿に戻しに行こう。あいつの遺志を、果たす時が来た」


 ルチルの言葉に、メリンダの視線が揺らいだ。

 その手が胸元に下げられたペンダントへと伸びる。

 恐らく遺髪が入っていると思われるペンダントを握り締めたメリンダの指先の白さを、凪は見るともなしにじっと見ていた。


「あの子はまだ術者としても為政者としても未熟で、負うべき重みにはまだ耐えられないわ」


「俺がいるし、メル、君もいる。レイルとランダとティルたちもいる。皆でちゃんと支える」


「彼らはあなたの所にいたのね。消息は聞こえてこないから、もしやとは思っていたのだけれど。そう、本当に良かったわ」


 そう呟いたメリンダが、涙ぐむ。


「遅くなって本当にごめん」


「いいえ、良いのよ。むしろ、よく逃げ延びてここまでたどり着いてくれたものよ」


 ハンカチで涙をぬぐい、メリンダが背筋を伸ばす。


「それで、もう一度訊くけどその人は誰?」


 メリンダの視線が、ルチルの肩越しに凪をしっかりと見つめる。

 思わず軽く会釈した凪に、メリンダは不思議そうに首を傾げた。


「あの、申し遅れました。凪と申します」


「わたくしはメリンダよ。……で?」


 再びルチルに視線を向けて説明を促すメリンダに、ルチルは気圧された風にほんの少し身を引いた。


「ええと、ちょっと色々あってこの人は実は異界の巫女姫なんだ」


「正確には、伝承に残っている異界の巫女姫は私の母ですけど」


「ああ、うん。そういうこと」


 歯切れ悪いルチルの説明に、メリンダは意表を突かれたらしくその手から涙をぬぐっていたハンカチが落ちる。


「え?」


 メリンダの手が、困ったように頬に添えられ、俯いて考え込む彼女の様子をオロオロとルチルが見守っている。


「……のね」


「ん?」


「実在したのね。わたくし、ただのおとぎ話だと思っていたのに」


 呆然と呟いたメリンダに、凪は、デスヨネーと心の中で思わずサムズアップした。

 凪の中で、ルチルの反応を見た時からいつか誰かしらそういう回答が返って来る想定はしていたけれど、それでも思わず遠い目になったのは致し方ないと思ってほしい。

 母が活躍したのは、ルチルとメリンダの反応から察するに相当昔のことだろうと思う。

 それも、寿命が数百年あるという精霊術師が何世代も重ねているはずだから、ざっと数千年は昔なのではないだろうか。

 スケールの大きな話に、凪は眩暈がしそうだと思った。

 そんな長い年月を生きること、その単位で移ろう世界など凪には想像もつかなかった。


「いやいや、あれだけはっきりした記録が残っていて、おとぎ話のはずがないと思うけど」


「だって荒唐無稽じゃない。異世界から始まりの王家の姫君よりも強い力を持った巫女姫がやってきて、その巫女姫は内乱を収束に導くほどの強い力を持ちながら、たかだか数十年しか生きないからこの先呼び出しに応じることは難しいと言い残して去るのよ? 納得いかないでしょう?」


 ルチルとメリンダが凪をそっちのけで、伝承について議論めいた話をしているのを尻目に、凪は部屋の中を見回す。

 石造りの堅牢そうな壁は窓が少ないせいか陰鬱で冷たく、こんな場所に閉じ込められて平然としているメリンダの精神力に凪は改めて感じ入った。

 凪ならば半日閉じこもるのも難しいかもしれない。

 それぐらい、何とも恐ろしげな雰囲気がする。

 石造りの建物の迫って来るような重苦しい雰囲気は、木造建築で空間を開放的に作る日本人にはあまり相性が良くないのかもしれない。


「そんなことより、早くここを脱出しよう。デュンも、ずっとこんな場所に閉じ込めておくのはよろしくないと思うんだけど」


「それは良いんだけど、そもそもここには簡単に侵入できないように空間を閉じてあるから、繋げると同時に、干渉されないうちにどこかに転移するしかないわよ? 準備は大丈夫?」


 どうにも落ち着かず、繰り返し二の腕をさすっている凪を蚊帳の外に置いたまま、ルチルとメリンダはああでもないこうでもないと脱出の手順について話し合っている。


「母上?」


 隣の部屋に続いているらしい扉からひょこっとまだ幼さの残る年齢の子供が室内を覗き込み、目を丸くする。

 やがてその目に涙が浮かび、大粒の球になって頬を滑り落ちた。


「リュン小父上、ご無事だったのですね。反逆だと大騒ぎで、父上を小父上が殺したと……そんなこと、嘘だって分かってました。だってあの日、私はあの者が父上の執務室で何を話していたか、机の足元に隠れて全部聞いていたんですから」


「デュン。……ディルウィン、それは本当?」


 涙をぬぐったディルウィンは、しっかりと頷く。


「はい。私がそこにいると知った上で、父上は私の存在を隠すためにも小父上のもとに転移されたのだと思います。あの日、父上は出るな、声を立てるなと何度も私に合図を送っていたのですから」


「なんてことだ……それで、メルはデュンと共にこの塔に立てこもることにしたの?」


「精霊術師があの男に協力している以上、この子をあれらの目にさらせないと思ったのよ。残った痕跡を辿れる者がいないとも言い切れなかったから。幸い、あなたたちにくっついて色々お転婆をしていた経験が生きて、追跡者の目を掻い潜って食料や必要物資は調達しているんだけれどね」


「そういう状況がもっと分かっていれば、俺だってもっと早く救出に動いたものを」


 メリンダは、辛いことなど何もなかったかのようにあっけらかんと、ただただ底抜けに明るくて、そのことが返ってルチルの胸を刺した。

 辛いことなどなかった訳がない。

 それでも、メリンダが向ける視線の先にいるディルウィンの表情を見て納得する。

 唯一の頼りの母親が暗い表情をしていては、子供が不安になる。それをよく分かっているのだろう。

 メリンダは、昔からそういう強さのある女性だった。


「案外、何とかなるものよ。これでもわたくし、結構人気があるんだから。女官やご令嬢方を中心に、それなりのご支援をいただいたわ。ひとりじゃないって、本当に有り難いものね」


 微笑んでふと視線を下げたメリンダの顔に影が落ちる。

 言葉とは裏腹の陰りが、瞬きのうちにその表情を滑り落ちて消える。

 もう一度顔を上げた時には常とは変わらない笑顔を浮かべていたメリンダの表情を、ルチルは見逃さなかった。

 込み上げてくる感情に唇を噛むルチルの袖を、じっとその場のやり取りを見守っていた凪が引く。


「ルチルさん、そろそろ夜が明けてしまいます。人目につかないうちに、移動してしまった方が良いのではないですか?」


「そうだね。じゃあ、ちょっと跳ぶよ」


 凪の言葉に、ルチルは我に返った様子で笑顔を作る。

 ごく軽い調子で呟いたルチルが差し出した右手にメリンダがつかまり、ディルウィンが背にしがみつき、焦った様子の凪に笑みを浮かべて、ルチルは左手で凪を引き寄せる。

 ルチルの様子に驚いたメリンダとディルウィンが思わず凪をじっと見たのと同時に、ルチルは郊外の隠れ家に跳んだ。







(おさ)!」


「……俺をそう呼ぶなといつも言っているだろうが、ヘイリー。メシ抜くぞ?」


「でも、長の気配が途切れたってエディの奴が言うんでぇ、でも、大丈夫だって俺ぁ信じてましたんでぇ」


 どこからかすっ飛んできて訛りの強いしゃべりっぷりでまくしたて、涙ぐむガタイの良い男にルチルの眉が寄り、眉間に巨大渓谷と巨大山脈が量産される。


「お前、唾飛ばしてしゃべるなって言ったのが守れないのか? 俺に小汚いシャワー引っ掛けんなっていつも言ってるだろ! ふっっざけんな!!」


 近づいて来た顔面を思いっきり正面から鷲掴みにして、力一杯遠ざける。

 その様子を別世界の出来事のように醒め切った気分で眺めながら、精霊術師ってもっと上品で賢そうな人の集団だと思っていたのにと、ぶち壊された夢と憧れに凪は乾いた笑みを浮かべた。

 どこの世界でも、男は永遠の男子であるようだ。

 今日も平和だ。


「はいはい、じゃれ合いはその辺にして行動予定とか顔合わせとかしないのかしら? 精霊術師様?」


 若干の嫌味をスパイスとして振り掛けた、凛とした声が不毛なじゃれ合いを収集する。


「王妃殿下、王子殿下!」


「あ、今はそういうのは良いから、早く話を進めましょう。時間が惜しいわ」


 さっきまでの騒がしさがどこへ消えたのか、無駄に分厚くて厳つい体を縮こまらせて恐縮し始めたヘイリー氏を制止して、メリンダが場の主導権を握る。

 そのまま視線を横にずらして、ルチルを視線だけで促す。

 その手腕に、凪は女王陛下万歳と叫んでひれ伏したい気分になった。

 実際にそんなことをすれば、冗談では済みそうにないので自重した自分を褒めてあげたいと思いながら、凪は空気に徹してメリンダに注目する。

 気配を感じてふと横を見ると、場の支配権を完全に持っていかれたルチルが少しばかり疲れた様子で立っていた。

 それを思わずじっとりした視線で見てしまったのは不可抗力だと思う。


「言いたいことは何となく分かる。順調過ぎて気が緩んだのは確かだからな」


 はぁ、とルチルがため息をつくのをチラッと見遣って、メリンダが頬に手を当てて首を傾げる。


「他の面々はどうしているのかしら?」


「あー、今は情報収集にほぼ全員出払っているのとぉ、エドさんは術の反動だかで寝込んどりますです、ハイ」


「俺のこと盛大に飛ばしたもんなぁ。あれ、明らかに咄嗟の馬鹿力的な感じであんま制御効いてない感じだっただろ」


「ンですね」


 ヘイリーの独特のしゃべり口が、妙にのどかさを感じさせる。

 どうしても問答無用で奪われていく緊張感に、凪は微妙な気分になった。


「えー、エディったら未だに制御甘いの?」


「あいつなぁ。弟弟子の中では抜きん出てたからあれでも優駿なんだよ? それに、特訓の成果で最近はそうでもなかったんだけど、俺が本気で死に掛けたせいで焦ったんだろ」


 相変わらず軽い調子で危機を語るルチルに、凪は感覚が麻痺しそうだと思った。

 段々分かってきたが、この人たちにとって時々命の価値は軽くなるようだと思う瞬間がある。

 きっと、一度ことが起きれば凪のようには誰かを傷つけることに躊躇などしないのだろう。

 生きるか死ぬかの時に、冷静に優先順位を考え、瞬時に決断出来なければ生き延びられないのだろうと頭では分かる。

 それでも、凪には自信がなかった。

 きっとその時は、決められず対抗手段もない凪は足手まといになるだろう。

 非力で高貴な女性だと一目で分かるようなメリンダよりも、凪の方がこの場合ずっと役立たずだ。

 ちょっと、地味に落ち込む。


「さて、様子を見てやるか。ついでに、やらかしたことの責任追及もしとかないとな」


 薄暗い、少しかび臭い石の通路をしばらく歩いた先にある部屋の、頑丈そうな木の扉を開けると、またしても男性がルチルにしがみついて来る。

 この組織には、そういう流行でもあるのだろうか。

 妙に縦に細長い印象の男が、体を折り曲げるようにして、そこそこの身長があるはずのルチルにしがみついて泣いている。


「テディー。生きてるぅぅぅ、俺の制御が甘いせいで訳わからんところにすっ飛ばして消えたのを見た時には本気で死んだと思ったぁぁぁううぅぅ、良かったぁぁぁぁ」


 言葉が泣き声に紛れて、語尾に微妙なビブラートが掛かっている。

 正直ツッコミが渋滞中と、凪は匙を投げることにした。

 涙とか鼻水まみれなのが汚いと思った訳ではない、たぶん。

 ルチルは慣れているのか、それとも出来るだけ被害が拡大しないようにという判断なのか、表情を消してじっとしている。心なしかあきらめの境地に達しているように見える。

 慕われるというのも一苦労である。


「何これ、流行りなのこれ?」


 非常に正直なツッコミに、凪は自分の心の声が出てしまったかと一瞬焦ったが、胡乱な表情をしているメリンダに心底共感した。

 メリンダに手を引かれたディルウィンも、微妙な表情で固まっている。


「テディって呼ぶな。あと、俺の服で涙と鼻水拭くな汚い」


 力ずくで相手を引きはがし、ルチルは不機嫌そうに唇を引き結んだ。


「エドアルド。誤魔化そうったってそうは問屋が卸さない。お前、しばらく座標指定の猛特訓な。ルディアに監視させて報告させるから、さぼらせないんでそのつもりでな」


「んな殺生な!」


「あ? 俺はうっかりで殺されかけたんだから、それぐらいガタガタ言わずやれや。な?」


 笑顔で強く念を押したルチルに、エドアルドはがっくりと項垂れて再び部屋に引きこもった。

 パタンと音を立てて扉が閉まったのを見届けて、ルチルはやれやれと首を振る。


「あれで、もう少し咄嗟の対応に強くなれば実力自体はある奴なんだよ。何せ俺に次いで、術師としては実力者だからな」


 ルチルを先頭にまた歩き出した一同は、やや広くなっている場所に辿り着いて、ルチルはそこに用意された簡素な木の机の上に置いてあった地図を広げ、一同を見回した。


「さて、まずは現在地の確認からいこうか」


「ええ、お願い出来るかしら」


 メリンダの言葉に頷き返して、ルチルの指先が地図の上を滑る。

 城らしい絵が真ん中に描かれ、その背後には山脈が連なっているらしい。その山脈の裾野に当たる部分に、印がつけてあるのを指差して、ルチルは説明を始めた。


「俺たちが今いるのはこの地点。遺棄された地下都市の、恐らく古い儀式場か礼拝施設と思われる場所に陣取っている。少し行って山の上に登れば、城は狙い打ち放題っていう最高の立地だ。まずは遠隔射撃で敵方の術者を無力化する予定」


「設備は今後も使うんだから、壊し過ぎちゃだめよ」


「もちろん分かってるさ。第一、破壊の限りを尽くしたら城下に広がる街も被害を免れないだろうし、民にこちらの心証が悪くなるだろ。それは最終手段だから安心して良い」


 何でもないことのように、人的損失についての言及が省かれていることに、凪の目が泳ぐ。

 それとは対照的に、神妙な面持ちでディルウィンは地図を覗き込みながら早口で交わされる作戦を聞き漏らすまいと耳をそばだてているのを感じる。

 無邪気にはしゃぎ回る子供でいられるような年齢の男の子が、張り詰めた面持ちで人の生死が掛かった話しに聞き入っている。

 大人たちが誰も彼を遠ざけず、当然のように参加させていることに凪は息苦しさを感じた。

 何かを“背負う”ということの重みを、誰もが平然と受け入れ、受け流している。

 当然知るべきことを知っていなければならないということの重さを、凪は考えて来なかったことを痛感して思わず視線が下がる。


「分かったわ。それで、侵入経路とかは確保してるのよね?」


「レムル河の支流が生活用水として城の地下に引かれている。そこから侵入する感じだな」


「なるほどね。地下水路と、管理用の通路を伝って入るのね。別動隊は?」


「陽動隊が街で乱闘騒ぎを起こすのと、大道芸人や物売りとして騒ぎを起こす予定だよ。それぞれ術師の人員は割けて5人、合計20名を4隊ってところだな。城下の者たちで加わってくれた志願者に、騒ぎを大きくする役割は担ってもらう予定で、これは各場所に数名配置予定。要所要所で騒げば、野次馬たちが勝手にことを大きくしてくれるだろうという目論見。滅茶苦茶な施政のせいで民の鬱憤は相当溜まっているから、一度暴発すれば鎮圧は相当骨が折れるはずだよ。まぁ、鎮圧しようにも頼みの戦力は民たちに被害を出さないためにも出てきたところを狙い撃ちでブッ潰すけどね」


 物騒な台詞を言い切って爽やかに笑うルチルに、凪の首が傾ぐ。

 どうやら、鬱憤がたまっているのは民だけではないようだ。

 好戦的なルチルに、メリンダとヘイリーがそれぞれ笑みを浮かべる。メリンダは苦笑、ヘイリーは心酔した様子で全力で同意している風だ。

 きっとルチルは本来こういう人だったのだろう。

 あの夜、凪のところに落ちて来た死んだような眼をして傷ついて疲れ切ってボロボロだった人物とは別人のように生き生きとしている。

 困難や苦難にぶつかったら諦めるより、可能性をこじ開けてでも道を創るような人。

 苛烈で眩しくて、力強い光。


「そういえばメル、脱出通路ってまだ生きてる?」


「ええ、わたくしが封鎖したままだからまだ使えるわ。封印が破られた形跡はないもの」


「あれって、こちらから侵入路としても使える構造だったよね?」


「……そうね」


 明らかに機密中の機密に触れる話題に、メリンダは慎重に答える。

 空気が張り詰めたのを感じた皆が固唾を飲む中、ルチルは楽し気な笑みを浮かべる。


「俺が責任持って構築し直すからさ、あれ、使おう。王の居室の封印は俺がいないと開けられないら、あの男――イル・ベネーノは王の執務室にいるはずなんだ。だから、脱出通路から侵入するのが一番近道だと思うからさ」


 ウキウキしているようにさえ見える上機嫌で提案するルチルに、メリンダは仕方なさそうに頷いた。


「必ずよ」


「うん。やっと、やっと手が届くんだからさ。それぐらいは大したことじゃないし」


 湧き上がる感情を抑え込むように、ルチルは目を伏せてグッと拳を握る。


「いずれ俺たちの存在が必要なくなる日が来るのかもしれない。精霊術師たちの力は弱まり、人間の力が増すごとに自然は力を失うかのように見える。だけど、それは今じゃない。今はまだ精霊が存在するのと同じように、術者の力がなければ人々は暮らしの安寧を保証されない。変化は、緩やかであるべきだ」


「そうね。それが王の――レヴァの遺志だわ」


「俺は――いや、私リュプス=エドワルド・アントス=プルイーナはレヴァーメン=ルメード・レネ=ライピュスとの誓約に基づきその遺志を遂行する。この世界に、精霊の祝福があらんことを」


 ルチルの言葉に合わせて、光が舞い上がる。

 凪の目には、言葉が輝く鎖になってルチルに巻き付いているのが見えた。

 ガッチリと巻き付いている鎖に顔色ひとつ変えないどころか、うっすらと笑みを浮かべているルチルの精神力に凪は言葉を失う。

 言葉は力、言葉は存在。名前はその人を世界に紐づける最も古い術式。

 その名に賭けて誓われたことは、存在の全てで贖われる最も根源的で、古く、強い誓い。

 誓いを破れば、その身に降りかかるのは想像を絶する苦痛だろうとよく知らない凪にも分かった。


(かたき)を、打ち滅ぼす時が来た」


「我らに精霊の加護があらんことを!」


 いつの間にか、部屋の中に人が増えている。

 男性が17人、女性が5人。年齢も見た目もバラバラな人たちは、皆簡素な衣服に身を包み、取り立てて目立つ特徴がないような服装をしている。

 パッと見、普通の町の人にしか見えないし、何の繋がりもないようにしか見えない集団。

 しかし、その全員が、ルチルとメリンダ、ディルウィンに注目している。

 そして何より、熱気と緊張感と興奮が、空気が今にも煮えてしまいそうなほど場を満たしている。


「皆揃ったな。誰かエドを引きずり出して遠隔狙撃の指揮しろって言って来てくれ。奴の手綱は申し訳ないが、いつもどおりルディアに一任する。レイルは陽動隊1班と2班の指揮、ティルは3班、ランダは別動隊として水路から城内に侵入、抵抗勢力の無力化に努めてくれ。ヘイリーは俺たちと一緒に来い。近接戦闘は任せた。じゃ、皆散会! 必ず無事に戻ること!!」


 ルチルの指示に従って、口々に応じると皆が持ち場に就こうと腰を浮かす。


「あ。長、合言葉を決めたんでぇ」


「あ、そうでした。「女神の髪は」って言ったら、「黄金の絹糸」って返すってことでよろしくお願いします」


 ヘイリーの言葉を、ルディアと呼ばれた栗色の髪に青空のような明るい青の瞳の、そばかすが可愛い女性が引き取って言う。

 その内容に、全員の視線がルチルの髪の毛に集まった。

 この場で美しい金髪なのは、どう見てもルチルだけだ。


「なんでその合言葉なんだよ! おかしいだろ!!」


 動揺のあまり声が裏返ったルチルに笑い声を上げながら、皆さっさと自分の持ち場へと散っていく。

 いち早く逃げ出したルディアが扉を叩く音が聞こえ、扉がこじ開けられる喧騒が聞こえる。男が叫んでいる声がみるみる遠ざかり、すぐに静かになった。


「愛されているわね、メ・ガ・ミ・サマ」


 笑いを含んだ声でメリンダにからかわれ、ルチルは顔をしかめる。


「放っとけよ」


 そのルチルの様子に、メリンダは目を細めて笑う。


「昔、初めて会った時、あなたのことを神代の王族より美しい、竜族の姫君のようだと思ったのよ」


 懐かしいわねと笑ったメリンダに、ルチルも過去を懐かしむように遠い目をした。

 2人はここにはいない誰かを探すように、視線を彷徨わせてほんの少し寂しそうに笑う。

 言葉にしなくてもそれが誰なのか、凪には分かったような気がした。


「じゃあ、行こうか。デュン、大変だろうけど頑張るんだよ」


「私は平気です。父上の弔い合戦ですから」


 しっかりと目を合わせて力強い笑みを浮かべたディルウィンに、ルチルは目を細める。

 綺麗なものだけを見ていられる年頃の子供に、過酷な現実を強いることに罪悪感がない訳じゃない。

 それでも、当のディルウィンが全てを見て知りたいと望んでいることは、ルチルにとって救いだった。

 強い子だと思った。

 この子がまっすぐに歩むための道を切り開くことがルチルの仕事ならば、喜んでその役目を果たしたいと思えるような希望がそこに在るから。

 ルチルは心から祈った。

 この願いが、祈りが届くようにと。


「それでこそ、この国の王になる者だよ。立派だね」


 目を細めてディルウィンの頭をひと撫でして、ルチルは凪に目を向けた。


「ナギ、俺の守りの範囲から絶対に飛び出しちゃだめだからね」


「分かりました」


 神妙に頷いた凪に頷き返して、ルチルはしっかりと前を見据え、歩き出した。










 狭い通路の中は黴臭くて息苦しい。

 しかし、王族意外に完全に秘匿され、封印された通路は誰にも未だ暴かれていないらしく、誰にも見とがめられずにここまで来れた。

 あちこちを騎士や使用人が走り回り、非戦闘員である文官たちは争いに巻き込まれないようにどこかに身を潜めているらしい。

 王の執務室の前には、幸い誰もいなかった。

 喧噪もどこか遠く、全ての陽動が上手く機能しているのは明らかだった。

 それにしても、為政者を守る者が扉の前に誰もいないのは、よほど手薄なのか、油断しているのか、それとも――人望がないのか。

 そこまで考えて、ルチルは笑みの形に口元を歪めた。

 いずれにしても、好都合だ。


「まずは俺が一人で入る。その後で合図したら突入してくれ」


 ルチルの言葉に逡巡したヘイリーをメリンダが制す。


「分かったわ。ここで待っているわね」


「うん。ごめんね」


「いいえ」


 笑みを浮かべたルチルに、メリンダも淡く微笑む。

 メリンダが一行を促して攻撃の死角となる位置まで下がらせると、ルチルが扉を慎重に開け、隙間から室内に滑り込んだ。

 扉が、重い音を立てて閉じる。

 扉の正面には重厚な木の執務机が設えられ、そこには神経質そうな小柄で細身の男が座っていた。

 おおよそ威圧感とは無縁そうな小男を、冷たい無表情でルチルが見下ろす。


「終わりだ、イル。あの時、俺の命を奪い損ねたのは失策だったな」


 ルチルの言葉に、男が皮肉気な笑みを浮かべる。


「まさか陛下があの状態でお前の元に転移し、お前がここまでやり遂げるとはな。俺さえ倒せば、次はお前の天下だな」


 低く笑うイルに、ルチルの瞳に怒りが宿る。

 凍り付く炎のような、絶対零度の灼熱に焼き尽くされそうな怒り。

 ルチルの足元で石の床がきしみを上げ、ひび割れる。


「あまり俺を煽るな。お前を死ぬよりも悲惨な目に遭わせたくなる」


 激しい怒りを抑え込んだ余波で、ルチルの足元に霜が降りる。

 それを心底嫌なものを見るように見遣って、イルは嘲笑を浮かべる。


「お前たちのような化け物は、退治してやるべきなんだよ。人の形をした化け物め!」


「確かに俺たちは尋常じゃない力を扱う存在だと、お前たち精霊が見えぬ者たちの目には映るんだろう。自然を操り、世界の理を操る姿は人には見えないのだろうな。この力は人が扱うには大き過ぎる。理解できないものは、怖れを呼ぶ。それは俺にも理解できる。だがそれは、ただの詭弁で建前だろう? お前は、優秀な男だ。お前の明晰な頭で、俺たちの存在が理解できないものでもあるまい」


 常の軽い調子とは異なる真剣な面持ちで、重々しく語るルチルは精霊術師の長としてそこに在った。

 その存在の重みに気圧されたのは、イルの方だった。


「俺は、生きてあと10年か20年、お前たちはその10倍は生きるんだろう? 俺の存在などなかったかのように、俺が尽力したものやもたらした変化などなかったなのように忘れて、流れ去る年月の中に埋もれさせるんだろう?」


 ルチルは、目の前の小男のことをじっと見つめた。

 確かに王が討たれて5年余り。あの時から何ひとつ変わらないルチルに対して、イルはすっかり老けて疲れ切り、枯れた老人のようになっていた。

 その上に降り積もる年月は等しくとも、その重みは異なる。

 そもそもこの国は精霊術師の王を前提として築かれている。

 強靭な肉体と精神、術式による回復を前提とした激務。王権は強いが、王が熟すべきと定められた事柄は多く、執務も判断すべきことも全てが王に集中する。

 その上、主だった貴族たちは国に忠誠を誓った精霊術師たちだ。協力を得られなければ、橋一つ架けられず税の取り立てすら覚束ないはずだ。


「それがどうした」


 イルの言い分を言下に両断したルチルに、イルが目を見開いて絶句する。

 その顔が、朱に染まる。


「全ての存在は過ぎ去る。過ぎ去れば、忘れ去られる。そんなものはただの世の流れだ。誰にも抗いようのない必然を今更論ずることに何の意味がある?」


「だが、俺が成したことは!」


「お前の次代は、育っているじゃないか。今はまだ文官のみだが、精霊と親和性を持たない者の登用も進めている。彼らのお陰で停滞していた技術が、文化が向上していると評判だった」


 ルチルは痛みをこらえるように、イルを見た。

 ルチルにとっては遠くない昔。自分の一生がこの国に、この役割に縛られて終わるのかと少し倦んでいた頃の話。

 王が新しい試みとして登用した平民たちの中で、毎日ひたむきに本を読み漁り、上申用の施策案を練る若者がいた。

 粗削りだけど、なかなか面白い案なんだよと笑った王に引き合わされた文官の青年の好奇心と情熱に煌めいていた目に、明るい将来を見た気がした。

 懐かしく、今となっては痛みを伴う記憶。


「イル。君は、老いたね」


 イルにとっては緩やか過ぎてもどかしかったのだろう。

 だが、急すぎる変化はひずみを生み、継承のない急激な転換は大切なものを置き去りにし、多くは暴力と犠牲を生じる。

 だから周到に根回しをし、案を練り、時間をかけて準備した。

 時間をかけて準備してきたのだ。


「王は、次の段階を用意していたんだよ。優れた者を登用するだけでなく、彼らの描いた施策案を政に反映させるための新しい仕組みを作るつもりだった。この国の舵取りを、民にも参加できるようにするための仕組みを。君という成功例があったから、流れが出来ようとしていたんだ。それを俺が想定した最も最悪な方法で閉ざしたのは、イル、君だよ」


「嘘だ! 俺は騙されないぞ!」


 裏返った声で泡を飛ばし、目をむいて叫ぶ貧相な男をルチルは見下ろす。

 イルは椅子を蹴って机から立ち上がり、ルチルに詰め寄り、掴みかかる。

 どこで間違ってしまったのだろうと、胸を満たすのは悲しみ。

 確かに術者ではない者は、不遇だ。生まれ、能力、そういった覆しがたいもので努力を否定され続ける。

 その屈辱の中で、いつしか歪んでしまったのだろう。

 そうとしか表現できない。

 劣等感、屈辱感。他者に踏みつけられることに慣れ切った男は、不信感と憎しみに道を踏み外した。

 まとめてしまえばその一言だけで片付けられることが、ルチルにたまらない心の痛みを与えた。


「イル。簒奪者イル・ベネーノ。国の理と、王との誓約において処断する。……滅約」


 ルチルが突き出した手を、握る。

 グシャッと音を立てて約定に縛られた存在が潰される。

 かつて優秀な青年文官は、王に見出され誓約を結んだ。身命を賭してこの国に尽くし、王と民を守ると。

 その時から彼自身には見えない鎖が彼を縛っていたのを、彼は忘れてしまったのだろう。

 足元に倒れ伏した乾き切った体に、ルチルは無言で身に着けていたローブを脱いでかぶせる。

 誓約が破られた時から知らず知らずに彼を蝕み続けた呪いも、消えればいいと願いながら。


「この世に、望みどおりに生きられる者がどれほどいるというのだろう。我らもまた、この大き過ぎる力を正しく扱うように宿命づけられ、この世界に使い潰される運命を負っているというのに。お前は、本当に、ひがみ過ぎなんだよ」


 灰色の簡素なローブの上に水滴が数滴垂れたことを、ルチル以外誰も知らない。

 ルチルは緩慢な動作で立ち上がり、重い足取りで歩き出す。

 扉の前で深呼吸をして表情を作り、重い扉を押し開けた。


「終わったよ、全て。……全ての者たちに戦いを止めるよう、勧告してください。我が君よ」


 通路の出口から姿を現したメリンダにルチルは少し疲れた様子で微笑み掛け、ディルウィンの前に跪く。

 その動きに合わせたようにヘイリー氏が跪き、凪は慌ててそれに倣った。

 息子の肩に置いていた手を離し、メリンダがその場に跪くと、ディルウィンは一同をぐるりと見回して、意を決したように口を開いた。


「分かりました。エドワルド術師長、万事恙なきようにお願いします」


 澄んだ瞳がまっすぐに自分を見つめて来るのを受け止めて、ルチルは柔らかに目を細める。


「謹んで拝命いたします」


 追憶は、追憶のままに。

 戻らぬものは、戻らぬままに。

 胸を温める新たな希望を感じながら、ルチルはどこかに身を隠しているであろう文官たちに檄を飛ばすために、颯爽と踵を返した。









 その夜、何とか破壊を免れ、表面上は静けさを取り戻した城内の客間に居室を用意された凪は、寝付けずに城の庭園を宛もなく歩いていた。

 凪の世界よりもずっと大きな月が、今にも空から零れ落ちそうに青白い光を放っている。

 誰かが死守したのか、庭園は無傷で昼間の争乱など知らぬげに花々は美しく咲き誇っていた。

 月光の中で咲くバラのような花は、風に芳しく薫りながら舞い散る。

 本物の薔薇では演出としてわざわざやらなければ見られないような花吹雪に、凪は瞬きも忘れて魅入った。


「あら、ごめんなさい。お邪魔だったかしら」


 声に振り向けば、室内着にショールを巻いただけの気楽な服装でメリンダが立っていて、凪は慌てて首を振った。


「いいえ、どなたかとお話しがしたかったので嬉しいです」


「そう? 殿方はまだ明日の式典の話で詰めっきりなのだけれど、わたくしはデュンを寝かしつけるついでに下がってきたところなのよ。折角だから、あちらに座ってお話しをしましょう」


 メリンダが指し示す先には花に囲まれたベンチがあり、凪はメリンダと並んで腰を下ろした。


「こんなことに巻き込んでしまってごめんなさいね。あなたがリュンを救って、こちらに送り届けてくれたお陰でわたくしたちはこの国を守ることが出来た。改めて、御礼申し上げます」


 立ち上がり、深々と頭を垂れたメリンダに凪も慌てて立ち上がる。

 身分の高い人間は基本的に頭を下げないと、凪もどこかで得た知識の断片として知っている。

 だからこれは最上級の感謝なのだろうと、その意味を考えて頭が真っ白になる。

 そんな凪の様子に、メリンダは小さく笑った。


「わたくしの立場的に公式の場であなたに礼を施すことは出来ないけれど、人として、母として、あなたにはどうしても感謝を表したかったの。だから気にせずに受けていただけると嬉しいわ」


 何でもないことのように笑みを浮かべるメリンダは、いたずらっぽく瞳を煌めかせる。

 その温かくも軽やかな雰囲気は、少女のような純粋さで対する人の心にするりと入り込む。

 不思議な人だと、凪は改めて思った。


「私は、大したことなんてしてません。むしろ、お邪魔だったと、自分でもよく分かっています」


 膝の上に置いた手に思わず力が入って、凪は顔が上げられなくなる。

 過大評価されることは、とても苦しくて辛い。

 凪はあちら側に残ることが出来ないような未熟な力の使い方しかできない半端者で、こちらに来てもただ後ろをくっついて回っていただけで何が出来たという訳でもない。

 実際には準備とか作戦が上手く行って戦闘らしきものに巻き込まれなかったから良かったものの、巻き込まれていたら凪が足手まといなためにどんな被害を生んだかすら分からないような存在だ。

 それをまるで大事を成し遂げた英雄のように思われるのは、評価が実際と食い違い過ぎて身が竦む。


「あなたがいなかったら、あなたと出会っていなければ、きっとリュンは死んでいたわ」


 返ってきた言葉に、凪はビクッと体を強張らせて弾かれたように顔を上げた。

 月光に照らされて、メリンダが怖いぐらい真剣な表情で凪を見つめている。

 凪と目が合うと、メリンダは昔を思い出すように遠い目をした。


「わたくしとリュンと夫のレヴァは幼馴染だった。レヴァとリュンにはちょっと夢見がちなところがあってね、2人はいつかこの国を出て旅をして回ろうと思っていたみたいなのよ。最初は微笑ましく見守っていた大人たちも、2人が本気らしいと気が付いて、ある日歴史を教える教師に精霊術師とは何か、この国の王侯貴族とはどういう存在か2人はみっちりと教え込まれたわ。その後、レヴァは逆に納得したらしくてすっきしりた顔をしていたけれど、リュンは抜け殻みたいにぼんやりと部屋に籠って死んだような顔をしていたわ。術者としての才能に目覚めて、古い術の研究にのめり込むまではね」


 何かを思い出したのか、メリンダは楽し気に笑い声を立てる。


「わたくしが王妃教育で多忙にしていて、ふと思い出してリュンに会いに行ったら、リュンのお母様が息子の変貌ぶりに頭を抱えていて笑ったわ。外を走り回っていたはずの子が本の虫というか研究の鬼というか、とにかく食事を食べに部屋から出もせずに、ひらすら文献を取り寄せては読み漁っている生活を改めさせたいという要望を受けて、術師の館に連れて行ったのよ。で、気が付いたらそこの長になってたわ。あの見た目に反して、努力と根性と実力主義合理主義の塊で、意外なぐらい人望もあって。男女問わず研究に人生捧げているような人たちと、楽しく研究に明け暮れていたのよ。……レヴァが殺されるまではね」


 言葉がプツリと途切れて、沈黙が落ちる。

 メリンダは黙って月を見上げて、自分の中の感情を抑え込もうとしているように凪には見えた。


「リュンには幸せになって欲しいと思っているの。あれだけの力が扱える術者は、それだけ重い制約を課せられている。それが世界の理で、逆らえば言葉で表現できないほどの凄惨な末路が待っている。だから彼は、自由にあこがれながらそれを諦め続けることに誰よりも慣れているわ。わたくしにとってレヴァに代わる人がいないように、リュンにはあなたが必要よ。もう、気づいているんでしょ?」


 メリンダの言葉に、凪は胸元を押さえる。

 あの日、不安定になった力を安定させるためにルチルに力を流してほしいと願った。

 ズタズタに傷ついたルチルは、凪の力を受けて劇的に回復した。

 力の強い術者ほど、自分自身の半身である伴侶を痛切に求める。


「私は――」


 凪は湧き上がった感情を言葉にしようとして、自分自身の存在が引っ張られるのを感じた。

 “穴”に、あちらの世界に吸い出される。

 まるで異物を吐き出すかのように、世界に吐き出される感覚に襲われる。


「駄目、お願い! まだ駄目!」


 どれほど叫んでも、願っても、凪のちっぽけな感情など世界の理の前では何の意味も持たない。

 その無情さに、泣きたくなる。

 唐突に起きた現象に驚き息を飲んだメリンダの姿が掻き消えて、慣れた草の感触の中に放り出される。

 起き上がらなくても分かる。

 そこは見慣れた自宅の庭で、ほんの1日にも満たない時間、そこを離れていただけのなじみ深い場所だ。

 でも、それが凪にはとてつもなく重い事実で、現実で、背中を丸めて声を殺して泣いた。

 世界に異物だと排除された。

 それがあまりにも強い衝撃で、凪はしばらくそうして泣いていた。

 泣き疲れて、だらりと力を抜いて寝そべる。

 静かな波音が聞こえる。

 凪が現実に打ちのめされても、世界は何も変わらない。

 小さく、小さく縮んでいく。

 自分自身の存在の小ささに絶望にも似た感情が襲ってくる。

 真っ暗な闇夜に放り出されたように、何も分からなくなる。

 どちらに向かって歩いたらいいか分からなくなる。

 見えない、見えない。

 何も見えない。

 どうやって歩いたらいいか、起き上がって立ち上がる方法が分からない。


「どうしよう、分かんない。ねぇ、分かんないよ」


 弱々しく呟く凪の声を、誰も拾い上げてくれる人などなく。

 凪は鉛のように重い体を、黙って起こした。

 昼間、駆け抜けた喧騒が嘘のように誰もいない。

 服装も、持ち物も何ひとつ変わらないのに。

 凪は自分の手をじっと見る。

 何ひとつ変わったところなどないのに、掴みかけたと思った手からすり抜けたものの残した痛みを、凪だけが地面に座り込んだまま噛みしめていた。

 理不尽だ。

 知らなければ、手に出来なかった痛みなど感じなくて済んだのに。

 掌で涙をぬぐい、鼻水をすすって立ち上がる。

 生きていれば生活しなければならない。

 当たり前のように夜は明けて、朝は来るから。

 凪の気分など関係なく、皆生きて生活をして、時間は流れていく。

 その理不尽を飲み込んで、人生に流されていく。

 だから、どれほど傷ついて落ち込んで不貞腐れても、旅行から帰って来た母に頭を撫でられて慰められた凪は、あの日空から美女のふりをした何かが落ちてきたことなどなかったかのように、記憶に厳重に蓋をして心の奥底にしまい込んだ。




「さて、運命ってものがそう簡単に諦めてくれると思ったら大違いだと思うんだけどね」


 夢うつつに、どこかで聞き覚えのある声がしたような気がした。











 大学を卒業して、就職して、毎日残業ばかりの日々を走り抜ける。

 時々意味ありげに自分を見つめる母の視線をかわしながら、凪は平凡な日常に忙殺されていた。

 忙殺されることで、思い出さないようにしていたのかもしれない。

 ふとした瞬間に目に入る金色の輝きを目で追って、我に返る。

 旅行先で刻一刻と移り変わる水面の複雑な色に見入って、切なくなる。

 至る所に思い出を呼び起こすものを目にしても、その感傷に気付かないふりをして厳重に蓋をし続けた。

 それでも、満月の翌日、良く晴れた夜にはどうしても庭に出て月を見上げてしまう。

 欠け始めた月は、力が陰り始めた証。

 月から視線を外して踵を返そうとした凪の頬を、薄紅の花弁がかすめる。

 それは、あの日メリンダと話した庭園で嗅いだ香。


「あのさ、俺は研究の鬼だって話し、聞かなかったの?」


 月光にキラキラと絹糸のような髪が輝いて舞う。

 ふわりと背後から包まれた温かな気配に、凪の足が縫い留められたように竦む。

 気楽な、少し軽い感じの口調と耳に心地よい柔らかな低音。


「俺は強欲だから、手放さなくても良いものは全力で取りこぼさないように取りに行くんだよ」


「ディルウィンとメリンダさんと、他の人たちは?」


「うん、デュンはつい先日結婚したし、メルは俺の元部下たちをこき使いながら好き勝手に女性の社会進出とか慈善事業とか、やりたいことを片っ端からやり尽くしている感じかな」


 頭上から凪の表情を覗き込もうとしながら、ルチルは大したことのない話しのような相変わらず軽い口調で歴史が動く瞬間みたいなことをあっけらかんと言う。

 凪にはきっと、この人たちの感覚は分からないんだろうなと思う。


「今日はちょっと、世界が勝手に放り出した俺の運命を回収に来た感じ?」


 そこらへんに散歩に出て、ついでに忘れ物を取りに来た程度のノリで宣うルチルの言いっぷりに、涙があふれて来る。

 ルチルと凪の日常はきっと、スケールが違うんだろうといつも思う。

 それでも、毎日を何気ないことのように飄々と生きるその生き方に、無性に魅かれていく。

 このまま立ち止まっていたら、世界に砂粒のように流されていく凪の日常は、ルチルといれば世界の真ん中で嵐を起こすぐらいのスケールにはなるのだろうか。

 それはきっとスリリングでスパイシーで、たまらなく刺激的な日々なんだろうと笑いが込み上げて来る。

 見慣れた家から、両親と姉と弟が出て来る。

 人生に、大きな不満など持ったことがなかった。

 それこそ、一般的な家とはちょっと違うところもあったけど、凪は十二分に自分自身を平凡な人間だと思っていたし、そう取り立てて秀でたところなどないと今でも信じている。

 それでも、初めて諦めたくないと思ったものが規格外だったのは平凡な人生に投じられた石のようで。

 その波紋は予想外に大きくて凪をひるませるけれど。


「ごめん、私、行ってくるね」


 泣き笑いで告げた凪の言葉に、家族は黙って頷いてくれた。

 振り向けは、月明かりを受けて輝く金色の髪と、移ろう水面のような複雑な色合いの瞳。

 じっと見上げたその人に、ふといたずら心が湧く。


「女神の髪は」


 呟いた凪に、彼は心底嫌そうに顔をしかめた。


「……黄金の絹糸」


 ポツリと呟いた彼に、凪は笑った。


「ねぇ、ルチル。こちらの世界でもね、ルチルのことをそう表現するんだよ」


「俺は、黒絹の方が好きだけどな」


 風に舞う凪の髪を、ルチルがすくい取る。

 そのまま髪を耳に掛けて、ルチルは凪の家族に深々と頭を垂れた。


「私をこの場に招いていただいたことを、心より感謝いたします」


 ルチルの言葉に、凪は家族を振り返る。


「そうそう通用する技じゃないから、この先は難しいと思うよ。それに、今回はそちらからの働き掛けがあって道が開きやすかっただけだしね」


 カラカラと笑う母と、隣で頷く父、ややげっそりした表情の姉と弟。

 皆どうにかしようと奔走してくれたのだと、凪はやっと気づいた。


「可愛い娘が毎日魂が抜けたように生きてるの見てたら、たまらなくなっちゃうじゃない?」


「心配して当然だろう、家族なんだから」


「お父さん、お母さん……」


 グッと詰まった凪に、皆が笑顔になる。

 このままルチルの手を取れば、もう戻れないということなのだろう。

 残していくこと、心残りがない訳じゃない。


「お父さんとお母さんのことは心配しなくていいわよ」


「そうそう、ねーちゃんと俺がどうにかするからさ」


 笑顔で手を振る家族の姿が、涙でにじむ。


「幸せになるのよ、凪」


「はい、行ってきます!」


 手を振る姿が霞む。

 そうして凪は“穴”に落ちて、消えた。









 色とりどりの花が、風に舞う。

 凪にもルチルにも本来なら参列したり介添えをしてくれるはずの家族がいないから、凪のエスコート役は激戦の末になんと現役の国王陛下であるディルウィンが勝ち取ったらしい。

 激戦って何だろうとか、どうやって戦ったんだろうとか、色々と気にしたら負けなような気がするからスルーする。

 国のトップが大人しく来賓席に座っていないとか、大丈夫なのだろうか。

 それも、凪の姿を他の貴族たちの目に触れさせたくないルチルの我がままで、身内だけを集めた小規模かつ秘密裏に進められた挙式だから実現した話らしい。

 凪が聞きかじって知っている挙式の実態から推測して、そうだよなぁと、妙に納得したり。

 こちらでは、あれから数十年が経過しているらしい。

 可愛らしい男の子だったディルウィンが、黙って立っていればキリッと知的で硬質な美しさを兼ね備えた美青年に成長していて驚いた。

 チラッと見せてもらった先王陛下と体つきとか全体の印象は一緒だけど、目元だけはメリンダ似だと思う。ちょっと切れ長なのが妙に色っぽいと、城で働く女性陣の中では評判らしい。

 プライベートモードで話し始めると、ただの好奇心の強い、ちょっと腹黒でやんちゃで毒舌な男の子になってしまうのが可愛いけど。

 ちなみに彼の妻も恋愛結婚で、ふんわりおっとりして見えてなかなかに胆の据わった才女らしい。

 もちろん恋愛結婚で、メリンダのお気に入りでもあるらしい。

 その名もメルローズちゃん。名前からすでに可愛い。

 今度紹介してもらえることになっていて、凪は今からティータイムが楽しみで仕方ない。

 所々不穏な単語が混じって来るのは、主にルチルとその楽しい仲間たちの悪影響だと言い切れる。少しはメリンダの影響も混じっているかもしれないけれど、それには触れないのが賢いやり方ってものだ。


「凪、本当に美しいわ。こんな幸せな日が迎えられるなんて思ってもみなかったわ」


 感極まったらしいメリンダが何度目か分からない感じで涙ぐんでいる。

 繰り返し繰り返し、朝から何度目か分からない感じで同じことを言っているメリンダに凪が苦笑する。


「大げさですよ、私なんてドレスを合わせている時からルチルが男装で良かったと、割と真剣に思ってたんですから」


「あー。あれ、詐欺よねぇ。化粧したら女より美人な男とか、世界中の女性に喧嘩を売っている存在よね」


 衣装合わせのついでにルチルに化粧を施して遊んでいたメリンダが楽し気に応じる。

 最初はちょっと興味深そうにしていたルチルが、いじくられ過ぎて最終的にはぐったりうんざりしていたのを思い出して凪も笑い声を立てる。


「ねぇ、凪。この世界に来てしまって、後悔してはいない?」


 改まった様子で訊いて来たメリンダに、凪は微笑む。


「この先後悔することがないかと問われたら、それは分からないとしか言いようがありませんけど。でも、終わりどころかこれから色々始まるというところで悩んだって、しょうがないかなって思って」


 明るく答えた凪に、メリンダも笑みを浮かべる。


「そうね。わたくしも色々なことがあったわ。でも、後悔していることと、これで良かったと満足していることとを比べたら、満足していることの方が多いわね」


 メリンダの手が、胸元に掛けられたペンダントに伸びて指先が愛し気にその表面を撫でる。

 その仕草だけで彼女が何を思っているのかが分かって、凪は笑みを深めた。


「いつかの未来に手にしたものを失っても、手にすること自体を諦めるよりもずっと良いと、私はもう分かっているつもりです」


 一度は世界にはじき出されて、ルチルの手を離したままもう会えないと諦めたくて諦められなかった日々。

 苦しくて辛くて悲しくて寂しくて。

 複雑で薄暗くて寒々しい感情を思い出す。

 あのままずっと生きていくことにならなくて良かったと、心からそう思うから。


「私は強欲ですから、手放さなくても良いものは全力で取りこぼさないように取りに行くんですよ」


 晴れやかに笑った凪に、メリンダは眩しいものを見るように目を細めた。

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