エピローグ
空に手を翳しても隠せないほどの日差しが照り、汗が流れ落ちる。
今日は特別暑いようだ。
場所によっては三十度近くの気温になると言っていた。
梅雨明けから凄い勢いで暑くなる。
今年は桜が散るのも早かったから、季節の巡りが通常よりも早いのかもしれない……。
「ああー、もうっ! なんでこんなに暑いのおっ!」
そんな炎天下の中、優璃が上空を恨めしそうに見上げながら声を張り上げる。
同感だ。
しかし、声を張り上げるというのは、それだけで相応の体力を使うことになる。
私は、その声に反応せずに手を動かす。
ごしごし。
ごしごし。
ごしごし……。
「……少し、休憩しますか? その間は私が――」
「芽美、甘やかしたら駄目だよ」
抗議の声を述べる優璃、反応のない私、沈黙に耐え切れなくなった芽美が助け舟を出そうとしたので止める。
「うう、凪沙がそう言うのなら……芽美、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ……」
「は、はい。その……無理はしないでくださいね?」
「って、それはお互い様だよっ。うー……よおしっ! 私も頑張るねっ!」
結局、優璃も手を動かす。
まあ、なんだ。
ただ単に愚痴を吐き出したかっただけのようだ。それだったら反応してあげても良かったかな。
雲一つのない炎天下、水の引いた学校のプール。
その床を流しっぱなしのホースからちょろちょろと出る水を応用してブラシを持ってごしごしと磨く私たち。
制服のままで作業をしているからか、シャツも汗で肌に貼り付き、スカートや素足もホースの水で完全に濡れていた。
――さて。
私たちは、今一体何をしているのかというと。
数日後に控えたプール授業のために、我が学園の馬鹿みたいに広いプールを生真面目に掃除をしていた。
「でも、酷いよね。ちょっと騒ぎになったぐらいで罰だ! だなんて……」
「まあ、停学とかにならなかっただけマシだよ」
「ですが、今思えばとんでもないことをしちゃってましたよね、私たち……」
思い思いに行き場のない言葉を交わし合う。
――あの、昼休みの中庭で起こった出来事。
それが想像以上に大きな騒ぎになってしまったらしい。
優璃と芽美が私を受け入れてくれた後、自然と静寂が困惑と歓声に湧き上がった。
その余韻は昼休みが終わった後も続き、どのクラスも殆ど授業にならなかったとのことだった。
そんな事態を重く見た先生に「その、恋愛の仕方は人それぞれだし、自由なんだが……騒ぎは起こさないでくれ」とお叱りと罰を言い渡されたのだ。
罰はともかくとして、問題は騒ぎになったことだ。
先生の叱りたいけれど、センシティブな問題過ぎてどう叱っていいのか分からない――。
といった感じの表情が伺えてしまい、より一層申し訳なくなったのを覚えている。
それを言われた時に改めて「ああ、私は大勢の人間が見ている前でなんてことを……」と思ったのだけど。
まあ、さすがに停学はないにしても。罰のプール掃除で済んだと考える方がよっぽと気が楽だ。
……いや。
大体、定期的な掃除は水泳部があるわけだし、誰かしらがやっているはずだ。
そう思えば代わりに掃除をしてくれる当てが出来た――なんて思ってるのかもしれない。
「お待たせ! 任せちゃってごめんね!」
「飲み物買ってきたよー」
「次は私たちが代わるから、休んで休んでっ!」
そうこうしている間に、プールサイドの入り口から三人の人影が見えた。
ビニール袋を掲げていて、中にはペットボトルで何本かの飲料水が入っているようだった。
「おおーっ! 助かる!」
「わざわざすみませんっ。ええっと、お金は――」
優璃と芽美が出迎えて、財布からお金を渡す。
「ありがとう。ごめん。コンビニまで行ってくれて」
そして、私もだ。
「う、ううん。いいのいいの」
「これぐらいは、ね?」
「殆ど私たちのせいみたいなところあるし、ね……」
その正体は安曇さん、飯塚さん、漆原さんだ。
彼女たちもまた、その場に居たものとして罰を受けさせられていた。
「その、改めてだけど……ごめんなさい」
「いいよ、別に」
「でも、沢山酷いこととか、言って」
「優璃と、芽美とも。あと、三人で話し合って」
「信じてもらえないかもしれないけど、今は反省してる」
以前も言ったが、何となく三人の考え方や行動にも、どうしてそんなことをしたのかの理解も出来た。
まあそりゃ、嫌がらせみたいなものだったし。同情はするけど、共感はしない――って感じではあったけど。
あれから、改めて面と向かって謝ってくれた。
優璃も芽美からも、言いたいことは言ったみたいだし。だから、それでいい。
かといって、私から言いたいことも特にない。
もう今後はしないでね、と。
それで簡単に終わる話だし、希望としてはそうしたい。
「うん、ありがとう……」
そんな私の意図を汲み取ってくれたのか、三人は静かに頷いてくれた。
殆ど付き合い自体はないけれど、優璃と仲良しの三人だったし、中等部から一緒の学園だ。
優璃から私の話を聞いている部分もあるだろうし、私の人となりもそれなりに知っていて汲んでくれたのかな。
「じゃ、次は私たちが代わるから! 三人は休んでて!」
これは優璃から聞いた話だが、三人は私と仲良くすることを前向きに考えているらしい。
たぶん、優璃からの提案だろう。
だから、高等部になって今更仲良くなるというのは少し歪で面白かったけど、険悪な関係が続くよりはずっと良い。
「あずみんたち、ちゃんと謝ってた?」
私と喋り終えた安曇さんたちがブラシを持ち、私たちに代わってごしごしと床を磨き出す。
それを確認した優璃が、私に質問する。ちゃんと話せていたのか、心配してくれていたらしい。
「うん。あと、私たちは休んで良いって」
「良かったですね。今回の一件も落ち着きそうで」
次いで、芽美もホッとした表情を見せる。
落ち着いた……のかな? どうにも怪しいものだ。
今朝、学校に登校する際に、優璃と芽美が付き合い出した時以上の視線を感じた。
まだまだ、私の願う平穏には程遠い。
「……ん?」
不意に胸ポケットに入れていた携帯がぶるると振動する。
こんな時に、誰かから連絡だろうか――。
『凪沙さんのせいで三年校舎のトイレ掃除を言い渡されました。本当に最悪です。どうしてくれるんですか』
と、その主は愛香ちゃんからだった。
「凪沙、どうしたの?」
「愛香ちゃんに怒られた。騒ぎの罰として、三年校舎のトイレ掃除だって」
「……少し、可哀想ですね。私たちは同じ学年なので、六人で出来ますけど……」
「あはは、次会った時はちゃんと謝らなきゃね?」
確かに可哀想だ。愛香ちゃんに関しては、意図せず巻き込まれただけのような感じだし。
『ですが、瑞沙さんが手伝いを申し出てくれました。凪沙さんと違って出来た妹さんですね』
しかし、どうやら瑞沙が愛香ちゃんを手伝ってくれているらしい。
実際に騒ぎのあった夜には、家で色々と問い詰められたからな……。
『おねーちゃん、学校で騒ぎ起こしたんでしょ!? 高等部でなんかあったらしいって、うちのクラスにまで噂が流れて来て恥ずかしかったんだから!』
そう言ってぷんぷんと怒る瑞沙を宥めるのに暫く掛かってしまったというエピソードもあるのだが、後日には姉の不祥事の責任を感じて罰を肩代わり……。
うん、確かに出来た妹かもしれない。
代わりに、来週の日曜日は断罪デートらしい。色々と強請られるだろうし、財布の中身が心配だ。
「おっ、飲み物以外にもアイスも買ってくれてるよ!」
気が付けば、ビニール袋の中のアイスを見た優璃が歓喜の声を上げていた。
「じゃあ、そこのベンチで食べますか?」
芽美がプールサイドのベンチを指差す。屋根も付いていることだし、日除けにもなる。休むには丁度良いだろう。
「ほら、凪沙も!」「凪沙さんも、ですよっ」
そして、二人が笑顔で私に手を差し出した。
「……はいはい」
今、暑さのせいで手汗ばんでるんだけどな……なんて、気にする二人でもないよね。
少し迷って、私は二人のの手をギュッと握り返した。
人生というのは、ひょんなことから百八十度変わってしまうものだ。
それを私は高校生になって、たった数ヶ月で学んだ。
五月の半ば頃、私は一人だった。
だけど、今は違う。
愛香ちゃんと仲良くなって、安曇さん、飯塚さん、漆原さんとも話す機会を得た。
そして何より、優璃が居て、芽美が居る。
「……私たちって、周りからどう思われてるのかな?」
「え、急にどうしたの?」
「なんだか凪沙さんらしくないですね」
唐突な私の発言に、アイスを食べていた優璃が不思議そうに小首を傾げて、芽美はクスクスと笑った。
「いや、だってどう考えてもおかしいでしょ。優璃と芽美が急に付き合い出したかと思えば別れて、それで……」
「……それで?」
「いや……言わなくても分かるでしょ?」
「でも、私も凪沙さんの口から聞きたいです」
どこか期待を持った視線。二人の美少女から。幼なじみから、一斉に向けられる。変な気分だ。
言ってしまえば、簡単な話だ。
しかし、一方で複雑だ……というのも。
「……私が、優璃と芽美の二人と付き合い出した」
――私、綾川凪沙が、あの騒ぎを経て、その二人と付き合い出したからだ。
「あははっ、そう聞くと……」
「確かに、変なのかもしれませんね」
二人は、照れ臭そうに笑う。
そんな姿が。
とにかく可愛くて、綺麗に思えた。
私になんて、勿体ない。
そんな風な考えが浮かんで、頭を振った。
二人が私を好きになってくれて、私も好きになった。
それだけのことだから、それ以上でも、それ以下でもないし、それでいいんだと思う。
きっと、私は不誠実な判断をした。
愛香ちゃんにも、瑞沙にも変な顔をされた。
だけど、色々考えた結果だ。
その場の勢いとか、一時の感情とか、幾つかの要因はあるかもしれない。
しかし、それも自分たちの判断だ。
そんな歪過ぎる私たちの関係も、いつかは変わる時が来るのだろうか。
案外、続くのかもしれない。いやいや、すぐに終わるのかもしれない。
……だけど、ただ一つ言えるのは。
それは、誰にも分からない。
優璃にも、芽美にも、ましてや私にだってだ。
「優璃、芽美」
「ん」
「はい」
私が名前を呼び掛けると、いつものように両端に座った二人が私の方を見た。
……分からないことは、考えたって仕方がない。
だから、
「好きだよ」
今は、そんな幸せを噛み締めていたい。
――私は焼けるように熱い空を見上げて、そんな風に思ったのだった。




