第六話 私の幼なじみが寝取られた。
朝ご飯を食べ終えて、私はすぐに瑞沙のぶーぶーと垂れる文句から逃げ出すようにして家を出た。
昨日の雨はどこへ行ったのか。
外は久しぶりに晴天で、カラッとした暑さもあった。
今年は梅雨明けが早いとニュースで見た。もしかしたら、夏を感じる日もすぐそこなのかもしれない。
と、まあ。
そんなことを考えながらも私の足は一点に向かっていた。
今朝の夢はなんだったのだろう。
歩きつつも、改めて振り返る。
余りにもリアルで、どことなくデジャヴを感じた。
過去の出来事を夢で追体験する――ってやつ?
創作で触れたことのある現象だけど、実際に自分の身に起こるとなると不思議なものだった。
でも、夢に出てきたのは確かに私だった。
そして、あの夢の話し相手は。
……最近になってから、何となくふわふわとした違和感のようなものが私の中にあった。
その原因が何なのかは分からなかったけど。
瑞沙との話も合わせて、遠い記憶がふつふつと浮かび上がってくる感覚。
今回のことで、それも解明出来そうな気がした。
「やっぱり、今朝の夢で見た公園と一緒だ……」
数十分も歩けば、すぐに目的地には着いた。
今私が居る場所は、並木公園だ。
大きな大木がずらっと並ぶ、人気のない、ブランコとジャングルジムと小さな砂場しかない公園だった。
優璃と瑞沙といつも遊んでいた中央公園とは違う。
此処は、優璃と芽美と遊園地に行く際に待ち合わせ場所に指定した場所でもある。
思えば、あの時にも違和感があった。その時にした、優璃と芽美との会話を思い出す。
『……なんかこの公園、懐かしい気がする』
『ん、並木公園のこと? ……来たことあったけ? 私たちの家からだと、中央公園じゃない?』
『……凪沙さんは、この――並木公園に、来た覚えがあるのですか?』
『うん、たぶん……小さい頃、たまーにね』
何かを思い出せそうで、思い出せなくて――。
そんな風に思ったはずだ。
「……うん。懐かしい」
試しに、二つ並んだブランコに乗ってみると、ギィギィと錆びた鉄の擦れる音がする。
ブランコなんて、何十年振りに乗っただろうか。
その頃から高いところが苦手な私は、ブランコを大きく漕ぐのが怖かった。
優璃に二人乗りをせがまれて乗ってしまったら最後、いつも私の制止を聞かずに全力でブランコを漕ぐから嫌だった。
恥ずかしながら、それで一度泣いてしまったこともある。
……そうだ。
そういう積み重ねもあって、この公園に逃げ込んだんだ。
「……あ」
そして、あの少女に出会った。
「おはようございます」
気が付くと私の目の前に、夢で見た一人の少女が――。
「芽美?」
じゃない。芽美が立っていた。
買い物帰りか行くところだったのだろうか、小さな鞄を肩に掛けていた。
――どうして芽美が、こんなところに? ……なんて、疑問に思う必要はない。
この公園は、芽美の家から近かったはずだ。
どこかへ出掛け帰りの途中に通り掛かっても何ら不思議じゃない。
ただ、タイミングがタイミングだ。
この頃微かに抱いていた一つの疑問が、今やっと確信に変わろうとしていた。
「ええ、芽美です」
そして、むしろ芽美の方が『どうしてこんなところに?』とでも言いたげな表情だった。
いい歳した高校生が寂れた公園のブランコに乗ってる。
私からしたら関わり合いにはなりたくないな……。
と、そんなことはどうでもいいんだ。
今の私には、確認しなければならないことがある。
「……私たち、昔に出会ってたんだね」
――勘違いだったらどうしよう。
一瞬浮かんだ臆病風を切り、意を決して私がそう尋ねると芽美は一瞬驚いた表情をしてすぐに苦笑を浮かべた。
「はい。……やっと、思い出してくれたんですね」
嬉しそう……とは違う、ホッとしたような表情だった。
今までの芽美は、私と会話する時にどこか一歩引いたように映った。
但しそれは、私と優璃の幼なじみという関係性による距離感の差だと思って疑問にも思わなかった。
だけど、実際は違う。
今の今まで、ずっと芽美は黙っていた。幼い頃に、既に私と出会っていたことを。
「……私のこと、分かりますか?」
芽美と初めて会話をした時――だと思い込んでいた、優璃に芽美を紹介された日と同じ言葉で質問された。
『……私のこと、分かりますか?』
その時に私は、少ない情報量から『ええっと…… 神崎芽美さんだよね?』と答えた。
『そういうことではないですが……まあ、いいです』
そう答えた芽美は、どういう気持ちだったのだろう。
ショックだったのだろうか。ガッカリしたのだろうか。
思えば、その反応の私に、優璃が不自然に『凪沙……』と微妙な表情を浮かべていた。
優璃は初めて芽美と出会った時に色々と話したと言っていたから、ある程度の情報は聞いていたのだろう。
だから芽美とデートしろだなんて言った時の理由に『だって、このままじゃ芽美が不憫なんだもん』と言ったんだ。
教えてくれたら良かったのに! ……なんて言葉を私が言うのは自分勝手だ。
全て、過去の記憶を思い出の片隅に仕舞い込んだままにしていた私のせいだ。
だけど、芽美は……私を、好きだと言ってくれた。
なんで喋ったこともない私に対してそんな風に言ってくれるのか。
それが分からなかった。
しかし、前提から間違っていた。
私と芽美は、ずっと昔に出会ったことがあったんだ。
「神崎芽美。……私たちがまだ小学低学年ぐらいの頃、この公園で出会った女の子。
優璃の恋人で……ある意味で、私の幼なじみ」
――あの夢に出て来た少女は、芽美だったのだ。
「いつから気付いてたの?」
「何がですか?」
「それはもう、私のこと」
「最初からですよ。この学校に進学を選んだのも、凪沙さんが居るかもって思ったからです」
「よく分かったね」
「小学校こそ少しの差で学区が違いましたが、引っ越しをしてなかったら私も中学校は峰ヶ丘学園だったでしょうから」
「なるほどね……納得した」
その後はどちらからともなく、二人で肩を並べてブランコに座った。
晴天のせいあって暑いはずの気温も、この公園に生い茂る大木のおかげで丁度良い日影加減を作っていた。
そうしながらも、芽美と会話を続ける。
私たちの通う峰ヶ丘学園は中高一貫だ。
そんなシステムだから、高等部生徒の九割以上が中等部生徒からの内部進学生。
しかし、芽美は数少ない高等部生徒からの外部進学組だ。
此処らへんの学校事情は、地元だから大体分かる。
近い区域で小学校が三つ。
私、優璃、瑞沙は中央小学校。
芽美は、並木小学校らしい。
愛香ちゃんは聞いたことがないが、存在を知ったのも中学生になってからだから、また別の小学校だったのだろう。
そうして、その三つの小学校の生徒の殆どが峰ヶ丘学園に進学するという流れになるのだ。
つまり、引っ越しというイレギュラーさえなければ、芽美も峰ヶ丘学園だったということだ。
全員が、絶妙な歯車の下に立っていた。
「ごめん。私、全然気付かなかったよ……」
「い、いえいえっ。私も覚えてもらえてるとは思ってなかったですし! ……まあ、少しはショックでしたけどね」
そう言って芽美は控えめに笑う。
……冗談気味ではあるけれど、その言葉は私に刺さる。
「ほ、本当に気にしなくていいんですよ? 凪沙さんにとっては何気ない出来事でも、私にとっては印象に残ってたってだけですから! それに、小学一年生の頃の話ですよ? 私のことを覚えている人なんて、居ませんでしたから」
確かに、芽美は元々中央小学校出身なら峰ヶ丘学園にも同級生だった人は居るはずだ。
そんな昔のこと、覚えてる人が居る方が不思議だ。
引っ越しする際に、心残りにならないようにと友達関係は全て断ち切っていたようだし。
……それに、あの頃の記憶と今の芽美では、少し印象にズレがあるし……なんて言い訳を羅列する。
「そう言ってもらえると助かるけど……もう十年ぐらい前のことだよね? よく覚えてたね」
「……だって、引っ越ししちゃったらそれまでの関係は全部消えちゃうわけじゃないですか? そんな時に、凪沙さんが私の前に現れて。一緒に遊んでくれて――」
だから、芽美は高校生になっても忘れられなかった。
……私にそういう経験はないからな。
ただ優璃と、たまに瑞沙に振り回される毎日だったから。
「別の学校に行っても、中学生になっても。ずっと、あの公園で会った女の子のことを忘れられませんでした。
中学生になって、多少一人で遠出も出来るようになって、この公園にも来たことがありました。
……私にとっては、それぐらいの出来事だったんです」
感情が昂っているのか、芽美にしては珍しく興奮した口調で喋っていた。
「それで、高校を選ぶタイミングでお母さんとお父さんにお願いしたんです。一人暮らしがしたい、と。
最初は反対もされましたけど、勉強も運動も頑張って。少しぐらいは我が儘を言ってもいいよね? って」
それで、約十年振り。
高校生になって、芽美は昔住んでいた地に戻ってきた。
「理由を聞かれたから、私、困っちゃって。勢いで『大切な人が居るの!』って言ったら驚いた顔をされて。
……そしたら、お母さんが許してくれたんです。前住んでた場所の近くでってお願いも通してもらえて。
その代わり、毎日連絡するように。マンションは防犯がしっかりしてるところで――。
って、色々と条件を言われちゃいましたけど」
凄い行動力だと思う。
引っ越しも転校も一人暮らしの経験もない私は、これまでの学生生活を全て惰性で過ごしてきた。
私が急にそんな乙女チックなことを言い出しでもしたら、お母さんと瑞沙に『熱でも出た』と心配されるだろうな。
「……だけど、そんな勢いで答えた理由も、凪沙さんを見た時にあながち間違いではないと思いました。
一目見て、凪沙さんだと分かって。声を掛けたくて。でもでも、忘れられてたらどうしようって。
私、その時に気付いたんです。自分の中で凪沙さんが、こんなにも大切な存在だったんだって」
私は芽美の発言を遮ることなくただ黙って聞いていた。
自分のことだからか。芽美の言葉だからか。不思議と聞き入ってしまっていた。
「それで、折角同じ学校になれたのに何も出来ずに一ヶ月が経って、優璃さんと会話出来た機会に全て話したんです。
二人で夢中になって凪沙さんのどこがいいとか、ここが好きなんだとか……。
あの公園での出来事以外の凪沙さんを知らない私は、少し嫉妬しちゃいましたけどね」
……なんて恥ずかしいことをしてるんだ。
「だけど、思い出してもらえて良かったです」
「私が思い出さなかったらどうしてたの?」
「どうしてたんでしょう。いつか、私から話してたかもしれませんけど……」
そう言った芽美は、少し小首を傾げながら考える。
だけど、これまで芽美は昔に私と出会っていたことを黙っていた。話せるタイミングは何度かあったはずなのに。
「案外、それでも良いと思っていたのかもしれません。昔のことがなくても、過去の凪沙さんも今の凪沙さんも、こうして私に良くしてくれましたから」
芽美は照れ臭そうにそんなことを言う。
……本当に。
考えれば考えるほどに私は幸せ者なのかもしれない。
優璃と芽美。
こんなにも色んな人間から好かれるような人たちが、私一人に向けて純粋な気持ちをぶつけてくれる。
「今日は、色々と話せて良かったです。……改めて、お礼を言わせてください。本当にありがとうございました」
私は、そんなに凄い人じゃない。
そう言うのは簡単だったけど、芽美の言ってくれた言葉を無下にはしたくなかった。
「そして、これからもよろしくお願いします」
ぺこり、と。
ブランコに座りながら、丁寧にお辞儀をしてくれる。
きっと今、私の頭がくらくらとしているのは久しぶりの晴天の熱気のせいだけじゃない。
「本当に、凪沙さんを好きになって良かったです」
……その、眩し過ぎる芽美の笑顔を見たからだろう。
―――
「私の名前は、芽美!」
ブランコから飛び降りて、少女――芽美は、屈託ない笑顔で凪沙に自分の名前を教えた。
そして、凪沙の前に小さな手をグイッと差し伸べる。
「どうしたの?」
「恋人になってくれるんだよね?」
「確かに、そう言ったけど……」
「私、もうちょっとしたら、遠いところに行っちゃうみたいだから……」
一瞬、芽美の笑顔が影に落ちる。
その変化に、凪沙は子供ながらにドキリとした。
「それまで、遊んでくれるんでしょ?」
不安そうな表情だった。
ここまで来て、嘘だったなんて言わないよね? そう言われているような感覚だった。
勿論、そんなつもりは微塵にもない。
優璃と瑞沙以外の人と遊んだことのない凪沙だったが、それはどうでもいい。
今はこの少女、芽美と同じ時間を過ごしたい。
純粋にそう思った。
「うん。引っ越しの日まで、毎日此処に来るよ」
そう凪沙が答えると、芽美は安心したように笑みを溢す。
それから一週間。
短い期間ではあったが、その寂れた公園で二人は不器用ながらに目一杯に遊んだ。
「私、忘れないから!」
やがて、別れの時。
「いつになるか分からないけど……また戻ってくるね」
芽美は、流れそうになる涙を必死に堪える。
「その時になったら、また遊んでね? ……また、今みたいに恋人になってね?」
もじもじと、恥ずかしそうに。
恋人の意味なんて大して理解していない。
しかし、芽美は二人を繋ぎ合わせた関係に感謝した。凪沙の言ってくれた言葉を大切にしたいと思った。
「うん。なるよ」
だから、凪沙もそう答えた。いつになるかは分からない。
だけど、一週間。
優璃と瑞沙の目を掻い潜って、ずっと芽美と二人で居た。
二人のことが嫌いなわけではない。
むしろ、好きだ。
だけど、その初めての体験はとても楽しいものだった。
「またね」
――そうして、凪沙と芽美の一週間限りの関係は一度幕を閉じた。
凪沙はその後に待っていた、ずっと放置していた優璃と瑞沙のご機嫌取りが大変だったの言うまでもないが……。
「凪沙ちゃん……」
芽美は決意した。また、この地に戻ってくることを。
そのために、何をすればいいか。
自身が大きくなっていくに連れて、徐々に分かってきた。
たぶん、過保護な両親を納得させるには相応の努力が必要なのだと。
だから、勉強も運動も頑張った。
細かな言動に身振り手振りから、言葉遣いも丁寧な良い子になろうと努力をした。
「全然、変わってない……」
一目見て分かった。
そうして念願叶い、十年振りに見た凪沙は幼少の頃の記憶のままだった。
途端に、嬉しさが込み上げた。
しかし、覚えているのは自分だけだろう。
そんな思いもあった。何せ、十年も前のことだ。
だけど、それでもいい。
また、改めて。
ゆっくりと、時間を掛けて仲良くなって。
いつか、昔のことを話せればいい。そんな風に思った。
……だからこそ、その凪沙を中心に――。
今になって、こんなにも歪で不思議な関係になっているなどと、その当初誰にも想像出来なかったのだ。
―――
優璃が芽美を紹介してきた時。
私は〝私の幼なじみが寝取られた〟と思った。
それは間違っていた。
……いや。
それもある意味で、本当だったのか。
しかし、事情はより複雑なのだ。
だって予想もしない。
二人とも、私の幼なじみだったなんて。
そんな幼なじみの二人が恋人同士になって、私のことを好きだと言う。
――私の中で、何が正解で不正解なのか。
二人の想いに対して、どう応えるべきなのか。
そう遠くない未来、決断するべき時が来る――なんて、漠然とだけど。
なぜだか、そんな確信があった。




