009
下生えの薄い部分を選びつつ、努めて体幹のバランスを意識する。
その際に落ちている枯れ枝を踏まないよう、足を下ろす場所一つをとっても細心の注意を払うのも肝要だ。
―――はーっ、はーっ。
森林特有の湿度を多分に含んだ空気に中てられてか、気付けば自身の耳にも聞き取れる、呼気の音。
時折ぴちゃりと何処かで落ちる、雨上がりの水たまりへと落ちるかな雫の響き。
時分としては初夏にも近い昼下がりの頃とは言えど、じっとりと貼り付いてくる衣服の心地の悪さに、冷や汗にも近いそれが一役買っているだろう事実は疑いようもない。所謂じめじめとした、季節柄の肌に張り付く重たい空気というやつだ。
(まずい、まずい、まずい)
だというのに、そんな生理的な不快感とは真逆の、ある種の強迫観念にも近いものが今の彼を衝き動かしていた。
振り向いたら終わりだと。根拠の無い妄想じみた焦燥に、思考の大半は絡め取られてがむしゃらに。近付いてくるそれから逃れようと、ともすればもつれかねない足を捕られないように、一歩一歩を速足に進めていく。
「キッ――ピギッ!?」
否、近付いてくる、どころではない。すぐ後ろに居る……!
まずは栗鼠の様な生物が進行方向の側の枝からぼとりと落ちてきた。
かと思えば、出会い頭に遭遇した角の生えた兎に近い生物が何故か白目を剥いてその場でひっくり返ってしまった。ともに口からは泡を噴いていて、凡そまともな最期には思えない異常性そして薄気味の悪い後味ばかりが際立っている。
もう間違いない。この森に足を踏み入れて間もないエムの目にも明らかに異常としか映らない、何らかの事態が現在進行形で起きているのだ。
―――くぅぅ。
だというのに。全身全霊の耐久競歩に似つかわしくない、間の抜けた音が鳴る。
それはともすれば焦燥感に圧し潰されかねない、パニック寸前の思考が。現実の側へと大きく引き戻された瞬間だった。
そういえば、今日は朝にブロックチーズ味の機能性食品を一口放り込んだだけだったな。
健気に訴えかけてくる胃の辺りを服の上からさすりつつ、見上げれば枝葉の合間より差し込んでくる空の光源は随分と西へと傾いていて。そんな午後の麗らかさを眺める内に、気付けば何かに急かされていた筈の歩みが止まっているのを自覚する。
「……腹が、減ったな」
やってしまったものは仕方がない。立ち止まってしまったついでに考える。
まずは自身の身体生理的な現状。
空っぽだった彼がエムとしての一歩を踏み出すきっかけとなった、オゥルと名乗った自称女神がそうと嘯くRPG風なこの舞台になぞらえればだ。今のエムは差し詰め【状態異常:空腹】辺りが当てはまる。三大欲求の一つに関わる、何を置いても真っ先に解決が望まれる案件だ。
次にそんなエムを取り巻く環境。
知らず立ち止まってしまったエムに寄り添う様に、背後にひたり、と憑いて回るこの気配。季節はずれにも汗ばませてくれる、本能に訴えかけてくるじっとりとした圧こそ変わらないものの、進むのをやめたエムをこれ以上追い詰めるでもない。空気を読まない空腹感にはたと落ち着いてみれば、そんなエムの思考に引き摺られたとでも言わんばかりに、それもひと時の正気を取り戻した様子さえ窺えた。
(何なのだろうか、こいつは?)
それでもあくまで、外面は一人で物を考え込む仕草を取り繕う。今のエムは丸腰、ましてや何の対峙をする覚悟もなしに下準備さえ出来ていない。あの性悪女の時の様に、希望の欠片もないチキンレースをこの空腹状態でやるなど真っ平御免というやつだ。
それに――何と言っても、だ。
どんな理由でそうしているのかは分からないが、今も背筋に近いところへとぴったりと貼り付いているそれの悍ましさは変わらない。
だのに、僅かに。まさか間の抜けた本能の訴えを聞いてではあるまいが、けれど確かに。その悍ましさの中にどこか緩んでしまった曖昧な……それでいて、心なしか目覚めた気配を感じられた気がした。
「――あぁ、そうか」
ご丁寧にもびくっと驚く気配を見せてくれる背後のそれに、くすりと零しつつ。
今もどこかオロオロとした素振りを感じさせる、おぼろげながらの背後の感覚。
その手の定番の存在を名乗るにしては、時節も、時分もややなおはやと言えなくもないそれからは。初めに受けたおどろおどろしい印象が、僅かながらに目減りをしている様にも思える。
ならば――と、振り返――るのは、お互いの立ち位置と自身の精神衛生上あまり宜しくないと判断し、大きく弧を描く動きで180度を方向転換する。あくまで方向転換であって振り向いた訳ではない。ここが肝要だ。
そこから徒歩にして数分もかからない内に、目的とした「獲物」が見えてきた。
「うん、まだいけるな」
腰に巻いていた元燕尾服な現荷物袋でそれらを包んだ後、ほっと息を吐く。
このサバイバル環境たる現状では最優先と言えよう食材の確保。その手段は兎も角として、少なくとも数日の餓えは間違いなく凌げるであろう、貴重な動物性たんぱく質の確保ミッションが完了したという事だ。
「あとはこいつらを捌ける場所と……そうだな、出来れば暗くなる前に水分も確保しておかないと」
ログハウスから脱出する際にどさくさ紛れで拝借したボトル内の残量を再確認し、独り呟いてみせる。そんなエムに答える言葉は――やはり、無い。
この背後に憑いてくる、正体不明の謎存在。
そうとはっきり明文化された訳ではないけれど。今後の糧となった小動物達の末路を見るに背後のこれはきっと、直視をしてはいけない類のモノなのだろう。
仮にそんな存在からコンタクトを取られたとして、どう対応すれば良いかも分からないし、何よりだ。
こうして栗鼠モドキと角付き兎を確保回収する今もエムを害してくる気配がない。であれば、問題を先送りするのもまた一つの選択ではないかと思う。
何しろ今の彼には、心の拠り所となるものが一つも無い。このサバイバルを生き抜く為の仲間もいなければ、物理的な武器さえ持たない丸腰な、孤立無援にも近い状況だ。
別個の存在の歩みが触れ合う際の、心理的な瑕疵。それは存外に重く人の精神に圧し掛かってくるもので。
今のエムにはそんなものを抱える覚悟も無ければ、自分のやりたい事さえ見つかっていない。あくまでとりあえずの目標をこれと決めて、その下準備に取り掛かる以前の手探りな状況だ。
だから、ひとまずは置いておこうと考える。まずは、真っ当に……と言える状況では既にない気もするが、最低限は食と住。その二要素の確保を目指していくとしよう。