008
初夏の時節を強く薫らせる、一面の青草たちに出迎えられて。
男は重ねて自覚する。一人きりになってしまった現在を。
戻ってしまった、とは言えない。言いたくない。
それは今の彼にとって、あの揺り籠の日々を蔑ろとするに等しいのだから―――
洞窟の外に広がっていたのは、オゥルの小間使いを勤しんでいた頃に幾度となく小耳に挟んだ通りの、平原と森の境目といった景観。彼が今のエムとして一歩を踏み出してより映る初のまばゆさという、圧倒的な視覚情報に、思わずほぅと息を吐く。
『――まずは手始めのチュートリアルとしてぇ~。森の手前に用意された、初心者用ログハウスを拠点にするのもありかもですねぇ☆』
ふと、いつだかに訪れたとある学生一団とのやり取りを思い出す。
指針が無ければ動き様もないと食い下がっていた彼等の要求に、彼女の裏を観続けてようやく解るであろう、うんざりとした間の後にそんな定型様式で返していたっけ。
「どの道、拠点は必要になるか」
自分に言い聞かせる様に嘆息を一つ。
目指すは大森林の入り口にぽつんと建てられた、一見すれば変哲もない丸太仕立てのログハウス。時季も時季であるからか、煙突から立ち昇るものも見られはしないが、さて。
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昨日に送り出した来訪者の一団は、どうやらこのログハウスを利用しなかったらしい。
特に施錠されている訳でもなく、小さな軋み音を伴って開かれた扉の奥は無人。その割には目立つ程の塵埃も積もってはおらず、そう長い期間を放置されていた訳ではない事実が窺える。
内景としては入り口部分の左手より二階へと繋がる階段というロフト風の造りに、一階部分にもリビングを取り巻く形でダイニングキッチンにバスルーム。奥手の側にも二つ程の個人部屋と、成程これでは数十人単位の集団が長期間の生活をするには心許なかろうと一人得心し、一通りの捜索を終えたエムはリビングの中央部分へ鎮座するソファへと体を預ける。
「ふぅ」
ひとまずの借宿は押さえた。オゥル曰く今シーズンはもうあの洞窟を経由しての来訪者達はないとの事でもあったし、その「シーズン」とやらのスパンが一月やそこらである筈もあるまい。であれば、暫くはこのログハウスを基点として周辺地域を探索するのも悪くはないだろう。
―――きゅるるる。
ほっとした彼の心情を察したからか、早速とばかりに胃袋よりは健康的な訴えが。そういえば最後に物を入れたのは、昨夜の激務の合間に放り込んだブロックチーズ味の機能性食品だった。これでは活力溢れる健康体を維持するには、多分にカロリーが不足しているというものだ。
「……後、三袋か」
ごそごそと懐を漁って出てきた携帯食ほか諸々を確認し、ソファに合わせて見繕われたらしき背の低い樹脂製のテーブルへと並べていく。
少し悩んだ結果、一体何処から電力を調達しているのか、電池式冷蔵庫の引き手を開けて数秒。強いて言えば段区切りの網目に沿って生えていた霜しか確認出来ずに、そのまま閉じてコンセントを引き抜き電源をオフにする。先住人たちよ、せめて旅立つ前に節電位は心がけようか。
「仕方が、ない…よな?」
更に頭を捻らせた後に、背に腹は代えられないと一袋目に手を付ける。
キッチン台に置かれていたプラスチック製の中ボトルを拝借し、これまた生活感溢れるカルキ臭の強めな水道水を片手にもっきゅもっきゅと咬筋周りを動かす事により、染み渡る栄養も相まって脳を活性化させる。その傍らで家探し、もといハウス内捜索の際に入手した羊皮紙とペンのセットを使い、目下解決すべき問題点を洗い出していくとする。
「まずは食料飲料、これはマストかつ最優先として――次に必要となるのは――」
いち哺乳類に過ぎないヒトが最低限人間と言える生活をするにあたって、真っ先に必要となるのは衣食住。その後に余裕が出来てきた辺りで、人を人たらしめる異常進化を果たした大脳皮質を刺激する、知的好奇心にまつわる何らかを見繕えば良い。
つまりは、だ―――
【****、*******。*******************、***********************】
見事に、読めない。
その背の低さより、見下ろす形となったテーブルの一点には、問題点の洗い出しをしている際に浮かび上がってきた、血文字の如きメッセージらしきもの。先に挙げた衣食住の内、少なくとも住に関しては一先ずこのログハウスを拠点とすれば、事足りるだろうと考えていたが。
「あまり、気分の良いものじゃあないな……」
有り体に言えば、気味が悪すぎた。
少しばかり脱線をしてしまうが、ここで一つ踏み込んで語るとしよう。
生物学的にヒトと呼ばれるいち哺乳類が「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」と心で深く考える人間を名乗るにあたって、その行動指針に関し、こと重視されるものの一つに個の心象といったものがある。
仮に、ここに二つの思考の相違があったとする。
一方の意見は、この頼れるものさえ無い環境。読解不能な文字の一つや二つなどよりも、住の強みを享受出来るこの環境を生かすべきだという。紛う事無き正論だ。
もう一方は、頼みの綱さえ見えない現状。利便性よりも危険に繋がりかねない不明をこそ遠ざけるべきだという、危機管理からの視点。仮にこのメッセージが何らかの警告を意味していたらどうするという、一見すれば心配性が過ぎるとも取れるが先も見えない状況では成程、やり直しなどきかない『詰み』への道筋を忌避する心情に至ってしまうのも、また必定だ。
「こっちも、読めないか」
試しに目に付いた壁棚の一部に収まっていた、分厚い冊子を手にして開いてみる。幾つかの図解から、生物種類やその分布について描かれている図鑑の類との想像こそ出来るものの、添えられていたのはやはり見た事もない文字の羅列ばかり。
何かを感じて視線を下ろしてみれば、テーブル上に描かれていた赤黒い文字はその形を複雑怪奇に変形させて、警告とばかりにこれ見よがしに明滅をし始めていた。
「……他を当たるか」
言葉にした途端、更に強まる文字の明滅。これではまともに今夜の宿も取れる気がしない。
つくづく心象に訴えかけてくる薄気味の悪さに、危機管理の側へと大きく揺さぶられた思考も相まって。そそくさと広げた手荷物を纏めたついでにふと、取り出した図鑑へと目を向ける。
―――ヴィーッ!ヴィーッ!ヴィーッ!
だろうな。
そう一つ嘆息して、けたたましく響き始めたアラーム音から逃げる様に。壁棚へと図鑑を戻したエムは、一目散にログハウスより飛び出した。
後にした、なんて格好付けた言い回しからは程遠い。それはもう命の危機の最前線に晒された者が生き足掻こうとする、切羽詰まりながらも生き生きとした感情をその顔へと貼り付けて―――
―――あぁ、信じるに足るものが欲しい。
それは、今の彼が漠然とながらも求めてしまおう、切なる想い。
その時の彼は、気付けなかった。背に迫る危機の予感より、全力疾走で逃げ出す為に。
あるいは、それに刺激をされた生存本能がようやく長い眠りより覚めつつあった、その高揚が故か。
ここで語るべきはそう多くはない。
あの「女神」が別れの際に、餞別として彼の懐へと忍ばせたとある小道具。「縁の枷」と名付けられた品。
それが、まるでエムの想いに呼応するかの様に。燦燦と降り注ぐ午前の日差しの下で、目立たない程度に薄ぼんやりと光っていた。