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007

 女神を自称するあの娘と過ごした日々が、夢幻(ゆめまぼろし)ではなかったと胸を張って言える様に。感慨深くも想いを胸に、努めて後ろを振り返る。

 そこには迷い込んできた当初にも目にした、何の変哲もない洞窟内の岩壁ばかり。あの日々の残り香なんて、ただの一つも漂ってはいなかったけれど。


『進むも地獄、退くも地獄。この世は総じて修羅道なりぃ★』


 再び前へと振り返ってみれば、道案内の真似事だろうか。

 青黒い壁面には明らかに書き殴られたばかりであろう、ショッキングピンクな色使い。ご丁寧にも出口の側へと矢印を添えられた、見覚えのある筆跡でのメッセージらしきものがでかでかと塗りたくられていた。


「台無しだろう」


 苔生す壁に塗料の匂いが混ざりあった何とも言えない刺激臭に、寝惚け半分のやっつけ仕事が実にらしい(・・・)と苦笑い。懐より取り出したハンカチ片手に鼻を押さえつつも顔を顰めてみせる。


「それにしても、蒸すな……」


 こうして立ち止まっているだけでも、兎に角暑い。

 少し迷った末に、上着を脱いでブラックタイを外し、襟元を大きく開き熱気を逃がしてからの二の腕までを袖まくり。何しろ文字通り着の身着のまま追い出されたに等しい彼の現状は、これから始まるであろうサバイバルにおける危機管理のスタートラインにさえ立てていないのだ。

 嵩張る燕尾服は捨ておこうかとも思ったが、これで生地としては最上等かつ、そこそこ頑強でそうそう水を通さない謎革仕立ての逸品だ。雨傘代わりに水の確保運搬等々、使える場面は多々あるだろうと解いたタイを緒の代用品に見立て、縦に畳んでベルトの要領で腰回りへと括り付ける。


「こんなものか」


 一先ず準備は整った。

 さて、きっと最後の餞別の見返り代わりに今も何処かから覗き見をしているであろう、自称女神の鼻をどうやって明かしてやろうかと思考を巡らせる。


 まずは目の前の冗談めいた矢印案内に従って、素直に新天地へと旅立つ選択。


 これは無い。

 何が無いって、あの性悪女の言いなりになっている感が強くて、陰でほくそ笑まれるのが目に見えているからだ。こうして悩んでいる今だって、きっと彼の心中を肴にしてニヤニヤと、生意気盛りのメスガキよろしく薄っぺらにも意地の悪い笑みを浮かべているのが容易に想像出来てしまう。


「……却下、だな」


 次に、あの「部屋(りょういき)」へと自力でどうにか戻る選択。


 これが出来れば、少なくとも驚かせるという目的は叶うだろう。あれだけ思わせぶりに旅立ちの儀式を執り行った手前、そんな事をしてしまえばその後に待ち受けているだろう報復が些かどころではなく怖い気もするが。

 それに、目的を達成する為の手段に事欠いているという現実問題がある。残念ながら、これも解決手段としてはそぐわなかろうと首を振る。


「と、なればだ――」


 いっそこの苔生した洞窟内に住み着いて、目的も無い日々を過ごすといった後ろ向きな案を別にすれば、残る選択はあと一つ。

 オゥルの許で三月を超える期間に育まれた、拙いながらの自我形成。

 その集大成である今のエムでも二の足を踏んでしまう、心に重く圧し掛かってこよう心的外傷(トラウマ)そのもの。オゥルの言葉ではないが、退くも地獄とはよく言ったものだ。


 相応の準備は、必要になるか。

 新天地の側より差し込んでくる陽光らしき光源とも相まって、遥かに重々しく映る、昏い逆路へと首を巡らせる。

 敢えてその選択肢を提示しなかったであろうオゥルの底意地の悪さに、あるいはその選択肢を遺してくれていたかもしれない、せめてもの心遣いに。エムもまた、覚悟を決めた素振りで一つ、大きな溜息を吐いた。

 然る後に、後ろ髪引かれる思いを断ち切る様に身体ごと順路へと歩を向ける。


「あくまで飲料水ほか色々と必要な準備の為に、寄り道をするだけだからなっ!」


 そんな、どう繕おうとも言い訳にしか聞こえない、締まらない捨て台詞を吐きながら。


 いくら覚悟を決めた事とはいえども、大の男と言ったって。

 怖いものは怖いんだ。自らのトラウマそのものに向き合うかもしれない後戻りをすると決めたとしても、せめて心の準備位はしておきたいじゃあないか。






 何処とも知れない、閉じられた領域の中で。

 朝餉のつまみ(・・・)と覗き見行為に興じていた「女神」は、くすりと小さく零してみせる。


「ざぁ~んねんっ★木偶化の仕込みは、流石にばればれでしたかぁ~」


 そうと嘯きながらも、反してその貌は実に楽しげで。

 その眼に彫られた昏い本質よりはしかし、今ばかりはささやかながらの柔らかみを感じなくもない。

 それはまるで、手のかかる幼犬の躾をしていた取るに足らない日々を、思い懐かしむかのように。


 あの時のお前はたぶん、どうしようもなく疲れちゃってたんですねー。


 「まっ、その捨て台詞が負け犬の遠吠えにならない程度には、足掻いて下さいなっ♪期待せずに記憶の片隅程度には残しておいてあげときますぅ~★」


 そんな、「女神」らしからぬ小悪魔じみた声を残して。何の前触れもなしに領域ごと、場そのものが消え去った。

 残されたものは、何もない。少なくとも、目に見える形を伴ったそれとしては。しかしながら―――


 ―――故に、さようなら(・・・・・)。縁があればまた、今ではないいつか、此処ではない何処かで。

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