005
それは、予定外な早朝の緊急コールに始まり、一日に四件の集団召喚というデスマーチにも程がある大口契約を結んだ、とある夜半の頃。
「アナタ達のセカンドライフに、せめてもの幸あれかしぃ~♪」
普段は見せた事もない、にこやかなる笑みで最後の学生達を送り出し、足音が聞こえなくなるまで柔らかな印象を塗りたくる様にふりふりと片手を振り続ける。
やがて隠された側の後ろ手にハンドサインが示されて後に、「部屋」の出口が頼りなさげにもぱたんと閉じられた。
打って変わって鬼気迫った様子で扉に張り付いた。もう戻ってきてくれるなと両手で扉を押さえ付け、耳をぴったりと貼り付けるという優雅さの欠片も無い「女神」の素振りからは何というかその……過去の失敗を糧にしよう学習の意義、といった物悲しさを感じられなくもない。
「………」
そのままの姿勢で聞き耳を立てる事、暫し。両開きな扉の逆サイドにはこれまた線対称にも緊張の色を残す、ぱりっとした若執事風の儀礼服に身を包む、見た目だけで言えばやや鋭い印象を与える男。互いの位置関係により、目線は必然的に「女神」の濡れそぼったそれと絡み、睦み合って――
「よーやく、終わったぁぁぁ!」
「やっと、終わったか」
過密に過ぎるスケジュールを終えた証として、扉を壁に見立てた二人はずりずりと背中合わせにへたり込む。
それだけでは足りないとばかりに「女神」が上半身を投げ出して、頑張った自分へのご褒美としての膝枕を要求する。片や「彼」も「彼」でこれ以上余計な熱気を抱え込むのは真っ平御免と、レベルの低いマウンティング競争の様な、傍から見れば何をいちゃついていやがる爆発しろとも捉えられかねない、無言の位置取り合戦が続く。
「……不毛だな」
「そぉー、ですねぇ~」
ややあって。激務に次ぐ激務に気力を使い果たしたブラック企業勤めの社会人が帰宅後に陥るであろう、色気の欠片もなく折り重なって雑魚寝の体勢へと移行する体たらく。
疲れた。二言目に揃って絞り出された感想がそれだった。
「もぉ、このまま寝るぅ~~~!」
「部屋」の外側では夏も近いらしきこの季節に、身体に溜まった熱を吸い取ってくれるひんやりとした大理石の床は余程心地が良いのだろう。脱力しきった様子ながらじたばたと駄々をこねる「女神」のもっちりとした頬っぺたを無意識にこねくりながら、「彼」もまた疲れの熱を冷ますべく、徐々に夢魔の誘いへと身を預けつつ。
「こんな所で寝たら、風邪…引く、ぞ……」
「いいじゃないですかぁ。今期の被召喚者達は、あふぁ……さっきの団体さんで、終わりなんです…からぁ」
そう、だった。
意識の大半が夢の世界へと沈み込む中で、声にならない相槌を打つ。
自称女神を名乗る、この娘盛りとも言えよう年恰好の女の言をそのまま信じるならば。彼女のお勤めとやらは、これで終わりで―――その言葉の、意味する処は―――
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寝るには向かない場での一夜を過ごした弊害か、節々が突っ張るやや不快な触感にあまり快適とは言えない目覚めを迎える。
「んくぅ」
その響きだけは可愛げの見られる、胸元近くの寝息に苦笑い。昨夜は結局、そのまま雑魚寝をしてしまったのだったっけ。
季節外れの肉布団と化した「女神」の肢体を丁寧にひっくり返す。ついでに肌蹴た衣装も添え直し、起き上がった「彼」は無理な寝相で突っ張ってしまった節々を解し解し、祭壇裏へと歩いていく。
祭壇裏の死角部分に据え付けられていた、小さな泉より湧き出る水を一掬い。カラカラになった喉を潤し水分補給を兼ねる。
「……のど、かわいたぁ……」
また随分と都合よくもタイムリーな寝言だな。
微苦笑を深めた「彼」は、要望通りに翡翠の杯へと泉水を掬って運び、脱水症状一歩手前であろう我儘娘の口許へと寄せていく。
んくっ、んくっと小さな口より喉奥へと流し込まれる動作一つを取っても、口さえ開かなければの典型。否、この娘の場合は不健康の極みにも映る目の隈も、その愛らしさの半減に一役買っていたか。
口許より時折こぼれ落ちていく寝惚け半分の水滴を、これもまたいつもの通りに、備えあればとポケットに忍ばせていたハンカチーフで拭き取ってやる。その内に目も覚めてきたのだろう。何とも言えない小さな唸り声と共に、再起動を果たしたらしき「女神」がのんびりと欠伸を零しつつ、うぅんと伸びをしてみせる。
「ぅあー」
前言撤回。どうやら未だ半ば以上は夢の水面を揺蕩っているらしい。
振り子運動に勤しむその頭の後ろにそっと片手を挿し込んで、残る側には冷水を含ませたタオル。目覚まし代わりとお肌のメンテナンスを兼ねて、ぐにぐにと弾力に富んだ「女神」の頬に始まり、顔全体を拭いてやる。
「わたくしぃは、お子様かってのぉ!」
ようやく目が覚めたかと思えば、今度は苦情を訴え始めた。まさか自覚が無かったのだろうか。
「扱いぃ!顔に出てるからぁ!?」
むくれた素振りを見せるもちもちほっぺを仕上げに両手でぺちり。傍から見ればやはり以前と変わらず変化に乏しい表情ながら、どこか皮肉気にも口の端をやや吊り上げて、大仰にも肩を竦める仕草。それは、この「女神」が差配する舞台へと迷い込んできた時分には見られなかった、「彼」の心情の変化とも取れよう。
「まぁ、いいですぅ」
心情の変化、と言うのであれば、ころりと表情を変えるこの「女神」だってそうだろう。
迷い込んできた「彼」へと向けられた、当初の「女神」の目は。ただただ視界に入る部外者を掃除しようとする、濁った平坦さばかりが際立っていた。
その後は、知ってはならない裏事情を知ってしまったが故にとの但し書きを添えられた、小間使いの真似事な生活が始まった。それは心地良いと言うには、些か不穏な日々ではあったけれど。
「それじゃあそろそろ、ここも引き払いますしぃ」
「……あぁ」
「女神」の言葉に、頷く声は……どこか重くも、沈んでいて。
「お前にはこの百日程の間、思ってたよりもお世話になりましたんで~。そのちっぽけな命と尊厳ばかりは見逃してあげますぅ☆」
決して、不快ではなかった。
今も自慢たらたらに自画自賛をし続けるこの自称女神は、人間の善悪性の観点から語るとすれば、疑いようもない悪だ。
一方的に喚びつけて、言葉で嬲り、尊厳を冒し、挙句には条件が合わないからと殺し尽くす。
かと思えば一転、甘くも蕩ける睦み言の類でその魂をたらし込み、相手をその気にさせては偽りの情報を与えて送り出してみせて。
いずれも利己的極まりない。勧善懲悪あるいは復讐譚といった、物語りにおいては倒されるべき立ち位置で。
だのに、何故。別れを示唆する「女神」の言葉に、ここまで心が揺れ動いてしまうのだろうか。
「次の舞台に、行くんだったら――」
しかしながら。そこで、言葉が止まってしまう。
何故ならば。どうにか絞り出そうとする「彼」を見る「女神」の瞳、その奥に。僅かながらではあるけれど。
「――ねぇ。今はまだ、空っぽの犬ぅ?」
失望の、色が。見えてしまったから。