004
「犬、汚物の後始末やっといて」
「―――」
今日も今日とて。
成程、過日に生きた詩人達はうまい言い回しを考えたものだ。
「犬、お客様の見送りもやっといて」
「………」
今日も今日とて。
繰り返す日々の営み。「彼」は「女神」の小間使いに勤しみ続けていた。
「いぬぅ~。いつもの、やつぅ」
「びきびき」
「そうやって安易にコメディ方面へと走る発言は、あまりお勧め出来ませんよぉ?」
五月蝿い、誰の所為だと思っている。
言いたい気持ちをむぐと呑み込み、効果の高そうな背なのツボを気持ち強めに押し込んでみせる。
ひぎぃ、と上がる嬌声。平時は鈴の音にも喩えられよう、鼻にかかった猫撫で声を桃色に穢した事で些かばかりの溜飲を下げて――それでも結局は「女神」の要望通りにマッサージを続けるのであった。
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「それでぇ~」
「―――」
「何か、思い出しましたかぁ?」
何気ない世間話の体で、小刻みに喘ぎを上げる「女神」が問うてくる。
それに対する答えもまた、今日も今日とてというやつだ。
「少なくとも、不意打ち闇討ち騙し合い――そういった類のやり取りを忌避する様な、聖人君子とは程遠かったらしい」
「でしょうねぇ……ンひっ!?」
何でもない様に相槌を打つ「女神」ののんびりとした言葉に、もう一度ばかりぐりっと背腋のツボを押し込んでやる。そんな「彼」の心境としては、こみ上げてくるのは乾いた笑いばかり。
何故なら、彼女曰くな汚物そのものこそ消えて果ててはいるものの、本日の趣向であるらしき迷宮風の壁面には今もべっとりと。見ているだけで臭気がここまで漂ってきそうな程に、何かをぶち撒けたかな赤い粘液が一面にこびり付いていたのだから。
「前衛的と評するにしても、程があるんじゃないかと思うんだが」
「知ってますぅ?前衛芸術ってぇ、革命闘争なんかの極端な思想運動を意味する隠語でもあるんですよぉ」
平然と返される言葉に、「彼」の頬がひくりと引き攣った。
つまりは、権力者に対する革命を起こした身の程知らず共に現実を思い知らせてやったと。この「女神」はそう言いたい訳だ。
「それにしたって毎度毎度、隙を晒し過ぎじゃあないのか?」
権能だとか祝福であるとか、時には歯に布着せずにそのままチートと表現してみたりと、はかばかしくも二枚三枚に分かれる「女神」の舌。ぺらぺらと軽くももたらされた「女神」よりの賜りモノを、ただ一人の例外もなしに当然であるものとして受け入れ、歓び、披露して。
あろう事か得た権能の強烈なインパクトに目が眩み、施しを与えた相手へと仇で返そうとする輩さえいた。その頻度、平均を取ってみれば二回に一回という高確率。
「叛逆の芽があるのなら、事前に摘むべきだろう」
当然の事ながら、思い上がってしまった哀れな身の程知らず達は。時には潰れたトマトとして打ち棄てられて、はたまたカラカラに干上がった出来の悪いオブジェとして床に根を生やしたりと、その悉くが「女神」自身の手によってあまり望ましくはないであろう最期を迎えていた。
「あれで、いいんですぅ」
記憶にも新しい、初の「女神」との邂逅となる何処ぞよりの学生達。
彼等に始まり、ここ暫しを小間使いとして「女神」の脇に控えて観察をし続けた来訪者達は、皆が皆、老若男女に関わらず幾つかの共通点を持っていた。
―――それは、ある種の抑えつけられていた欲求不満。その反動としての、次なる舞台へと向けられた渇望といったもの。
思考を是とする者が等しく持つであろう、善悪性といった心情に関する是非は兎も角としてだ。
何かしらの目的があってそうしているのだろうが、それにしたって非効率極まりない。
喚んでは屠り、その血と臓物あるいは魂を触媒として、更なる同類を喚び続ける。そして遺された互いの毒を喰らい合い、更に凶悪な毒素を創り上げようその様は、まるで―――
「――まるでぇ?」
今、自分は何と言おうとしたのだろうか。
そのイメージははっきりとあるというのに、言語化しようとすると途端、思考の出口に非常用のシャッターが落とされたかの様に留められてしまう。
うつ伏せに息を荒げるそんな「彼」を見透かす風に覗き込んでくるこの「女神」が曰く、来訪者達を迎え入れるあの一連のやり取りは、召喚と呼ばれる儀式であるらしい。
「ぐっ……」
召喚、とは――何らかの目的を達するが為に、自らの差配する領域へと迷い人達を声高らかに呼び寄せて、召し遣わせるもの。
呼ばれる側の都合など一切考慮に入っていない邪道の極み。一見そう言われよう向きもあろうが、条件に合った者達の本質部分へとダイレクトに語りかけよう、その甘い囁きの伴われた声に堪えきれる者が、果たしてどれ程いる…のだろう……。
「そこまでにしときなさぁい」
冷めた響きに、はっと我に返る。
靄のかかった記憶の向こう側を強引にかき開こうとした弊害、だろうか。全身にはじっとりと冷たい汗が貼り付いており、気付けばとばっちりを受けるのは真っ平だとばかりに華奢な肢体を避けて起き上がる、「女神」の艶姿。細い眉根は不快げに、見目麗しきに似合わない皺を寄せて睨め付けてくる。
「どうにもぉ……お前という個が被っている仮面には、妙な鍵が掛けられている気がぁ、するんですよね」
珍しくもその語尾をはっきりと切って、そんな事を言って来た。
言葉の意味が浸透していくにつれ、比例して昂りが均されていく錯覚。
それが意味する処を知って、自らの置かれた状況にぞっとする。
「まぁ~?さっきの質問に答えるとすれば?従順なばかりな魂なんかに、そこまでの利用価値なんてある訳がないじゃないですかぁ★」
まただ。
絵に描いたかな邪悪な在り様。にんまりと厭らしい笑みを向けてきつつも、その手段手法にこそ疑問を呈する余地はありながらも、相対する者への気遣いばかりは見せてくれる。
その上で、なお。小間使いの真似事に勤しんでより一月程というそう長くない時間の中で、その詳細こそ不明ながらも見えてきた、目的の為ならば手段を択ぼうともしない徹底した姿勢に。
(――歪にも見える訳だ)
疲労というものは、何も身体への過負荷にばかり依存したものではない。主に精神からくるものだってあるだろう。
だから、今「彼」が返せる言葉としては。
「そんな、ものか」
「そんなもの、なんですよぅ」
せめてもの慰めに、その美貌を些か悪く印象付けてしまっている隈部分の滞った血流を解すべく、むにむにと仕上げのフェイスマッサージへと取り掛かる。
一方の「女神」はと言えば、そんな「彼」の珍奇な行為に何を思ったか。忙しない指先の動きを時折目で追いかけながら、特には不満を言うでもなくされるがまま。
「そうそう。本来、わたくしの居るこの領域はですねぇ~」
やがて一通りの顔面ケアを終えたところで、わざとらしくも両の掌をぽんと合わせてそんな話題を振ってくる。
「お前が言ったような、たぁだ、迷い込んできたぁ~☆なぁんてあやふやな理由じゃあ……到底、辿り着ける筈がない場所なんですよ」
「そう、か」
「えぇ、そぅお」
まだるっこしい、を絵に描けばこうなるであろう様を実践してみせる、この性根の悪さにうんざりと溜息を吐く。
「分かっているなら、わざわざ推論を装って聞くまでもないだろ」
「ほら、こういうのってぇ。互いに気持ちを確かめ合う儀式っぽい側面もありますしぃ?」
ぶっきらぼうに返すも、いけしゃあしゃあと頬を染めて恥じらう真似までも演じてくれる。実に性質が悪い。
ぽっかりと空いた心の隙間へとじわりと侵し始めてくる、形の見えない濡れた何か。けれども何故だか、それを拒絶するには躊躇われて。
「その間こそが、お前の持ち得る――いえ、持ち得たかな?渇望の証左だと、わたくしは思うんですよねぇ」
「……そうかも、しれないな」
だから、だろうか。今度はそれでも、素直に頷く事が出来た。
あの頃の「彼」は、確かに誰かを待っていた。先に進む選択をしてしまった今となってはもう『空っぽ』の向こう側に置いてきた、思い出すのも叶わない姿形だけれども。
今は喪ってしまった、自らの渇望。それを捨ててまで進んだ先に、「彼」は何を見ようというのだろうか。
―――俺は、まだ。何も―――
「何かを成し得たい。別にそんなの、誰だって持っている他愛のない願望じゃないですかねぇ~」
それに対する答えと言う訳でもあるまいが、やはり他人事とばかりに零す「女神」の言葉。それが、妙に印象に残った。