001
薄褐色にピンぼけをした、何処ともしれない通り路。
空には霧。そう広くはない視界をぼかす、湿った大気にしとしとと。
取り立てて冷たく感じるでもなければ、言わずもがなにその真逆であろう筈もない。
ただただ、味気も無しに空っぽな心へと詰め込まれるばかりな、頼りなくもその正体を包み込んでくれる霧の中。柔らかにも見通せない雲の下、何気も無しに眺め続ける。
それが「彼」が見る情景のすべて―――
それだけが「彼」に出来た、ただ一つの―――
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―――初めてそれを意識してから、一体どれ程の時が過ぎたのだろう。
景色は変わらずどんよりと、視界を狭める霧靄に包まれたままで。
足許には立ち止まってしまった寄る辺なきを示す、一筋の路。
―――分からない。
その先は見上げる空と同じく、霧靄に包まれているから。
どちらへ向かえばいいのかも分からない。
だから、ふっと湧いたそんな興味も失せて。
「彼」は蹲ったまま、自らの膝を抱いて頭を下ろし、再び考えるのをやめた。
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―――気配を、感じる。
身じろいだ。当然だ。
ここは「彼」独りだけの場所。たとえそれが一時の休憩だったとしても、仮に心折れて頽れてしまった道半ばであったとしても。余所者に土足で踏みにじられる謂れは無い。
そこで、意識した。その場へ足を踏み入れてきた「それ」と、「彼」は別個のものであると。
それは個と他を分ける、明瞭な境界線。初めて景色に、彩が塗られた。
「ウ、ウェヒッ……」
「―――」
不自然な吃音に言葉が詰まる、霧靄の向こう側。
頭の部分には二本に伸びる、人間にあるまじきシルエット。
その背なの奥には幾又かにゆらゆらと、覚束ない不安気とでもいったものが見え隠れをして。
「……その、わ…わたしは」
だからなんだ、とさえ思わない、思えない。
今の「彼」からは人間としてのそんな真っ当な感性すら、薄ぼらけて喪われてしまっているのだから。
「―――」
あるいは最初から、何らかの予感があったのかもしれない。
知らずざわついていた気分は気付いた頃には静謐に。語りかけて来ようとするひたむきさばかりは強く押し出される、震えるその声を待ち続ける。
「ご、ごめんなさい……わたしは、もうそこには居ないから」
だが、しかし――長くはない時が過ぎた頃に、こぼれ落ちたのは。
「だから――さようなら――」
どこか懐かしささえ感じさせてくれる、最後の予感を伴った別離の言葉に。
心に貯め込んでいた、待ち続けた意味の終わりを表すかの様に。一筋の雫としてそれは流れ落ちた―――
―――もう、ここに「あいつ」が戻ってくる事はない。
その事実を嫌と言う程に刻み付けられた傷に、うっすらと瘡蓋が覆い始められた……その更に暫く後。
立ち上がった「彼」は、蹲っていた道端より何の気負いもなしに、煉瓦の路へと一歩を踏み出した。
だって。気負う必要なんて、もう、何処にもありはしない。
背負うべきと考えていたそれは、もう、この手をすり抜け零れ落ちてしまった後なのだから―――
今度こそ、本当に空っぽになってしまった「彼」は歩み出す。
人は何の希望を持てなくとも、日々の暮らしを営んでしまえる様に。
ただ生きるだけでも息を吸い、糧を食して過ごすが如く。
先に進むべくな「彼」の歩みもまた、そこに在る者としての当然の行いの一つ。
目的の如何に関わらず、在るだけで周囲へと影響をもたらして、そして自らもまた受ける影響に知らず作り替わっていくのが人間というものだ。
「――意味の無い、事など有り得ない」
果たしてそれは、誰に言い聞かされたものだったろう。
今の「彼」には、それすらも解らない。理解をする為の記憶も何もかもが、「彼」の内には残されていないのだから。
だから「彼」は、気付かない。気付けない。
択んだ道のその先に広がる、次なる舞台のその意味を。
やがて「彼」は導かれる様に、次なる舞台の入り口へと足を踏み入れた―――
次回はPM7時に。暫くは一日二回投稿予定となります。
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