99_樽を知る、ジャンプしよう。
鉄骨の上にいる巨大な猿が、樽を転がしてくるのを避けながら、上を目指すアクションゲームがありました。裏技で、最下段からワープして上から透明なハシゴを降りていたことを、思い出します。単純でしたが、結構繰り返して遊んだような覚えがある、ゴブリンです。もう一回同じくらい熱中してやれるかと言われると、意外と一日中遊べそうな気も致しますが、おそらくは、昔は良かったとかいう類の補正がかかっているのだろうと、予想できます。
そのような遊びに限らず、昔は良かったとか、懐かしむような、思い出で補正がかかったような価値観を持つ方は、結構多いように予想致します。そのほとんどが、今本当にもう一度それを繰り返してみると、不便さや、感動のなさに愕然としてしまい、昔の感動をもう一度味合うためにいろいろ苦労したのは、なんだったのだろうかな?と寂しく思う展開を迎えるような、人たちも中にはいるのだろうなと、ぼんやりと予想したりして、ちょっと微笑ましい感じがします。
昔していたこと、味わった体験を、もう一度繰り返してみたくて、四方八方に手を尽くして、当時の状況や、環境を再現して、相当のコストをかけて、根気よく物事を進めて、周囲に十分な根回しまでしたのに、なんだか結果はあまりこう、パッとしなかったですね、とがっかりしている方とか、思いでは思い出だけのものにしておけばよかったかなとか、寂しく笑っている方々に対して、かける言葉の最適解ではないかな?とちょっと思うのは、その思い出を再現しようとして、色々やっている時間は、きっと貴方は楽しかったでしょうし、その時に協力してくれたり、共感してくれたり、暖かく見守ってくれた周囲の人の優しさは、とても貴重なものだったんではないでしょうかね?とか言う類のものではないでしょうか、と予想するのです。
おそらく、綺麗にまとめようとすると、そのような言葉になるのでしょうね。もっとも、すごく満足して、またやりたい、とかなる可能性も大いにあるわけですが。
お祭りやら、ものづくりやら、何かを成そうとした時は、その準備をしている時が一番楽しいのですよ、と言う意見がありますね。確かに、ゴールについてしまうと、終わってしまいましたねと言う寂しさがともに湧き上がるわけですし。準備の時には、次に何をしよう、こうするともっと面白くなるんじゃないかな、あれ、これ使えるんじゃないか、などと、アイデアをひねりつつ、それがうまくいきそうだと、想像することで、興奮したりして、精神的な満足を得ることが、できるのでしょうね。
それもしかし、終わりがあると分かっているから、準備が楽しめるのであって、終わりの無い、始まらない祭りの準備は作業でしか無いので、楽しみは低くなるでしょうね。それでも、いつかはこれが日の目をみることを願って、コツコツと、何かを溜め込んでいくというのは、それはそれで、楽しそうな気がいたします。
祭りは、それを提供する側よりも、それで楽しむ方が良い、準備なんて面倒くさいことはやりたくない、と思っている方も多いような気がいたしますね。確かに、踊らされている楽しみは否定しませんし、観客がいない祭りもまた寂しいものでありますから、一定数それらの人々も必要だとは思います。
ただ、与えられたお祭りだけを、楽しむというのは、だんだん飽きてくる、かもしれませんね。もっと過激な刺激を求めたり、新しい演出を求めて、それを実現させてくれるところに、通いつめるような、何か、どれだけあっても足りなくて、際限なく求めてしまう、どこかの地獄とかにありそうな責め苦を連想させるような、そのような様相を連想してしまいます。考えすぎかもしれませんね。それに本人が幸せなら、はたから見てそれが地獄とか修行とかに見えても、別にこちらが気にすることではない、という心情もまた真理かな、とかぼんやり思います。
幸せになるためのコストパフォーマンスが悪そうだなぁとかは、たまに思ったりしますが。
「今度はどんな手を使ってデートしましょうか?」
「創意工夫をする姿勢には感動しますが、犯罪には手を染めないでいただきたいですね”ご主人様”」




