71_ 失敗する学び舎。
昨今の教育現場における警鐘とかそういうお話ではなくてですね、幼い時やら若い時、学校などで学んでいる時は、良い失敗をするべきでしょう、という結構昔から言われている話題でございます。
一度も失敗を経験したことのない人格は、何らかの失敗を年齢を重ねた状態でおかすと、失意とか、挫折する衝撃が大きすぎるという、お話、テンプレートではありますが、物語にはよくあるようです。現実社会でも、自分の失敗を認められずに、何とかごまかそうとして、余計に被害が大きくなるとかいう、パターンがあったりするようです。
ですので、社会にでる前、年若い時、学校などいくらか周囲の大人が騒ぎをコントロールできる環境で、大いに失敗しておくべきなのだろうと、いう意見があるようです。失敗の程度は、本人の受け取り次第でその重みが変わってくるのですから、その辺りも見極めて、丁寧な対応が必要になるんでしょうね、そう考えると、学校関係者の技術というのは、かなり高めなものが要求されている、のかもしれません。
もっとも、しつけとか、基本的な共通的な立ち振る舞いは、家庭で、学習させるのが前提であったここ100年くらいの常識がありますから、学校では、同年代とか近い年代における、集団生活のあれこれを注視するだけでよかったはずなのです。
がしかし、それら、基本的な躾そのものも、学校側へと丸投げされるようになってきているようですね。なので、いろいろ時間が足りなくて、関係者が対応に追われているようです。外からの観察だと、1日8時間労働に加えて、およそ2時間くらいは追加で作業をしているように見えますし、さらに何らかのシーズンには、例えば期末の成績づけなどや、各種行事の準備やら、が重なると、平気で日付が変わるまでお仕事をしているという、パターンもありそうです。
なので、余裕がないのでしょうね、できるだけ失敗しないように、準々に、先回りして、段取りをして効率よく、学習を進ませようとする流れがあるようです。いえ、その流れ自体は正しいのですが、いささか、遊びの余地がなくなっていく可能性があるのが、ちょっと寂しい感じがいたしますね。
わざと失敗させるというのは、作為的すぎて、いやらしく感じて、躊躇しますし、失敗するとすぐに諦めてしまう子供が増えているようですので、そのようなリスクはあまり取りたくないというのもあるのでしょうね。できるだけ低い障害で、誰でも解決できるように丁寧に、指導する方向へと舵を切るのも無理はないわけですが、こう、なんとももどかしい気がいたします。
むしろ無理難題を放り込む、一見無責任に見える学校関係者とかの方が、生徒は育つ、のかもしれませんね。ただ、外から見ている分では、わからないことが多いので予想しかできないわけですが、簡単には解けない問題を提示してみるのも、成長には必要なのかもしれない、とか、ぼんやりと思うわけです。
前提として、少々に失敗は折り込みずみなんですよ、ふざけてはいけませんが、難しいことをやって失敗したり、知識が足りなくて、最初つまづいたりするのは、普通のことなんですよ、という前提条件の提示は、子供の前といえどもした方が良いのかもしれませんね。
ああ、失敗してもいいんだ、じゃあ気楽にやろう、となって真剣味が薄れる可能性もあるわけですが、萎縮して前に出ようとしない雰囲気に支配されるよりは、良いのではないかな?と思います。
失敗した原因を一緒に導き出して、じゃあ、対応しましょうね、という流れで、学習させるのは、昨今では自然な流れのようですね。でも、それなら最初から言っておいてくださいよ、という反論が来るので、そういう流れなでいきますので、よろしくお願いします、と、先に今回の授業の大まかな流れを先に説明して、了解を得ておくというのも、結構良さそうな気がいたしますね。
ネタバレだ、という生徒が出てきたら、その方はきっと推理小説が好きなんでしょうね。進めてみるといいのではありませんでしょうか?
「きちんと授業もしてますよ?」
「そこのところはすごいと思います。”ご主人様”」




