540_煩わしいから会話をします。
無視をすることでさらに面倒なことになる場合もありそうでございますということでありますが、要は認識の違いをすり合わすことが必要であるのであろうなということでございます。文章や言葉は基本として情報を完全に共有することができない媒体でございまして、方向を変えて、幾つかの矢印を突き刺すようなイメージで多方面から情報を表す必要があるのでは、などとぼんやり思いながら始まる今日にゴブリンでございます。
会話と申しますか、対話でありましょうか、何を知っていて何を知らないのかという状況をまず共通で認識する必要がある場面がどこかにあるのでありましょう。お仕事にしかり、趣味の世界にしかり、家族の間やら、生活が近くにある関係性の中での行動の前提になるような感じでございましょうか。言ってもなかなかそのような状態にならないのでございますが、言わなければそもそもどうにもならないわけでございまして。
身もフタもないような情緒も何もないくらい直線的な表現で誤解を与えないように情報を伝えようとすると、なぜか謝罪をしてくるという現象もあるようでございまして、必要なのは謝ることではなくてどうしてそうなったのかのプロセスやら、問題点が聞きたいというパターンも多そうでございます、ここで謝罪という行動に出てしまうのは、謝ることを強要するような思惑で似たような発言をしている方が結構な割合で存在するということかもしれません。
言葉と感情が直結している方々が多すぎるという問題があるのかもしれません。思いを言葉にするというとなんだかロマンティックな感じになるわけでございますが、要は、よく考えなくて発言している、本能に近いところでの表現であるわけでございまして、それは理性というものからは遠いのではなかろうかというわけでございます。
情を捨てなさいということではないわけでございますが、今それを議論の中心に据えると、解決から遠ざかるのではなかろうかという、発想はそれほど珍しいものではございません、個人的な知り合いやら、感情を移入することができる存在が、全体的に効率的な行動を阻害するという場面は、これはフィクションにせよそれでないにせよ、多く見られるわけでございます。
何を目的にするのか、達成しなければならないものは何であるのか、優先順位はどのようにつければよろしいのか、つまるところ咄嗟に判断するときに、迷わないようにあらかじめ決めておくことが必要であるのですよ、という意見には結構納得するところがある、とする方が多いのではなかろうかと想像するわけでございます。
人間味がありません、という反論もまた出てくるわけでござますが、人間であるということはそれほどシステムを維持したり効率的に動くことに対して阻害要素になることが多いわけでございまして、ある面では人間らしさというものは欠点にしかならないわけでございます。つまるところ人間らしさを少しずつ理性面へ強化していかなければ、全体的な成長やら、社会の維持やらがうまくいかないのではなかろうかという想像がございます。
社会性やら全体をシステムとしてみて、人間性というものは、結構な頻度でそれを阻害する要素であるのではと想像できるわけでございますが、人としての生き方は、これは結構な割合で快楽に直結する要素があるわけでございまして、快不快の要素で行動するという、古来から続くシステムで維持してきた文化を支えてきたのもそうでございます。
ここを変える必要があるのではなかろうかとか、少なくとも快不快の内容を理性とかによるような、本能を変化させていく必要が、あるのではなかろうかとか想像するわけでございますが、根本をずらしていくわけでございますので、長い時間が必要になるのでしょうね、とか想像したところでおしまいです。
「神との対話で全て解決ですね」
「本能のまま活動して問題ないようになればよろしいのですよ、つまり愛ですね」
「外部に委託した本能でしょうかね”旦那様” 心の欲するまま行動して問題ない、でしたか”奥様”」




