536_過去を振り返らない対話。
間違いを犯しても、それに対しての謝罪がなされないということは、客観的に観察してよろしくないことでありましょうと、想像するわけでございますが、立場の違いやら、謝罪をすることによる不利益やら、リソースの不足から、罪を償うというよりもそれ以前にその罪を認めたり、もしくは、罪であると気がつかなかったりするような組織や個人が存在することが、結構な数観察できるようでございます。
人間の特徴としてカウントしておいてよろしいのですよね、とか無邪気に笑う幼女のようなものを思い浮かべている今日のゴブリンでございます。
それはそれ、これはこれ、であるからして、過去の間違いをその組織やら個人やらが謝らなかったからといって、今現在発生している不具合に対して、糾弾の声をあげないということにはならないという理屈は、それはまあ確かでございまして、正しいことを言っていることと、その発言をしている方が、正しいとことは、これはもう別のお話であるという理屈もございます。
過半数ほどの方々は、しかしそれでも、発言の内容と、それを行った方の性質とか歴史とかを関連付けて判断しているようでございまして、借金で首が回らないような方に、お金の大切さと申しますか、節制について、唱えられても、これはまあ、説得力がないと申しますか、指示に従うとか生活の指針にするということはなさそうでございます。
反面教師的な捉え方をすることはありそうでございますが。
周囲の状況によって同じような罪やら間違いやら、行動をなしても、その評価はかなり違ってくるわけでございまして、変化のない物差しのようなものではかったならば、その行為はどのような年月やら環境やらがあったとしても、その点数は変わらないのではなかろうかという意見もございますが、そもそもそのような物差しになるようなものは少ないわけでございまして、かろうじて、法律がそれにあたるのでございましょうか、と想像するわけでございます。
法に触れないレベルの不具合やら行動でありますと、そしてそれは結構厳格に法を当てはめない世界で暮らしているのであれば、結構な頻度、むしろ日常的なやりとりの中で出てくるものでございます、それの是非をどのようにして判断しているのかと申しますと、これはもうその場の雰囲気というものが支配するものであるようでございます。
なんとなくそれが許されるような空気とでも申しましょうか、雰囲気を作ってしまわれる、自然に作られてしまう、そのようなことがままあるようでございまして、厳密に判断するならばそれは法に触れる禁忌であるのではということでも、さらりと場の流れで許されることもあるようでございます。また、逆に些細な内容であったとしても、ことさら大仰に、声高に悪と宣言されて窮地に立たされるような場合も、またあるように観察されるわけでございます。
誠実ではなかったや、人より多く何かを享受していた、や、短絡的に感情的に動いてしまったや、逆に感情を無視して、正しすぎる行動をしてしまった、つまるとこ、その場に合わない雰囲気を作り出してしまったものが、悪者になるという現象があるようでございまして、そして、そのような環境は結構技術によって作ることができるようでございます。
集団で生きる生き物である人間の本能に近いものであるのでありましょう。理論整然と、効率を重視して、集団が行動するほどの、システムが未だ構築されていない、ということでありまして、それに代わって、未だ感情やら古くから使用されてきた、感覚的で短絡的な反応システムが、かなりの幅を利かせているということでありましょう、などと予想するわけでございます。
この辺りにまだ、改良の余地がありますよと、喜ばしいことですね、とアドバイスをしておいて、おしまいです。
「とかく戻ること、むし返されることを嫌う上のに、自分からはむし返すことに躊躇しないというのが人間なのですよね」
「いくら繰り返しても愛なら良いものですのにね」
「自分本意であるのが生き物の本能の一つということでありましょう”旦那様” 飽きるということはなさそうでございますね”奥様”」




