535_お題目で目目連。
妖怪というジャンルに分類されるご同輩がございまして、目目連様は、その字が表すごとく壁やら移動用の間仕切りやら、天井やらに多くの目が連なって見えているというものでございまして、誰かから覗かれている、見られているという感覚がそのような怪異を引き起こしているのではなかろうかとか言われているようでございます。パラノイア的なものでございましょうか、監視されている社会というものが、それほど珍しくなくなってきましたので、誰かに常に見られていて当然とか、むしろ見守ってくれているのであるとか、感覚が変化してきましたらば、もう現れないものかもしれないのでは、などと予想しつつ、そのようなことはありませんよ、と目で語る目目連様とアイコンタクトを交わす今日この頃でございます。お元気ですかゴブリンです、私は憑かれているようでございます。
目を引く題名で読者を惹きつけて、内容はそれほどでもない記事を読ませるという手法は、これはまあ、それほど珍しくもないわけでございまして、むしろ、一種の芸能とか芸事の類までに昇華されていきますことで、愉快な笑を引き出すことに成功しているような部類のものもありそうでございます。悪意にまみれているようなそれに笑を見出すことのできる精神構造が本当によろしいものであるのかという、疑問は出てくる可能性はあるわけでございますが、元来人間は悪いものや毒に分類されるものを笑う傾向が高いわけでございまして、本性であるなら自然なことなのでございましょう。
何かを自分の下に置いておく、こちらの方があちらよりマシであるというように錯覚させることは、現状の不満を軽減し、ストレスを発散したりすることができるようでございまして、つまりは、生きる為の、意識してかしないでかの知恵でございます。必ずそうしなければ生きていけないということはなく、そういう時期や状況にある個体が相当数観察されるということでございまして、常にそのようにしている方が多いということではないようでございます。
広告というものが利益を生むということを知ってしまったもしくはそのようなシステムが構築されてしまっておりまして、知られるということの価値が認識されてきましたから、まずは興味を引いてそこにそれがあることを知ってもらう必要性というものが大切にされるようになってきているようでございます、これはそれほど新しい概念ではなく、感覚においては、人が集団生活をするようになったあたり、よりも前に、群れとか呼ばれていた時代まで遡れる可能性もあるわけでございます。
求愛の行動も、敵意に対する警戒信号も、本質的にはコマーシャルと変わらないのではなかろうかという発想でございまして、つまるところ情報を発する、相手に知ってもらうための行為であるわけでございますので、当然利益があるからそのようにするわけでございまして、原始的には己の生命を守るという快楽に直結していたのではなかろうかと想像するわけでございます。
その自然発生した行為を分析したり統計を取ったり、つまるところ客観的に数字で効果を実感したりしたが故に、技術として鍛えてみようとか、便利な道具として広告を使用してみようという試みがなされてきたわけでございまして、その一環として、目を引く題目、耳に残るキャッチコピーとかが誕生されたのでございましょうね、とか予想するわけでございます。
実際のところはどうなのでございましょうか、広告をすることで売り上げが変化するということを盲信している可能性もございまして、不特定多数にそれをばらまくことの有効性はこれは結構早い段階で疑問視されてきているのではと観察できるわけでございます、要はコストに対してリターンが少ないような数字が出てきているということでございます。
広告に目を惹かせる、情報を際立たせる働きと、情報に価値を持たせる働きは、これは実は少しずれているのでございましょうね、むしろ価値のなさそうなものを、さも貴重なものなようにして売る手法が、あの見出しとかになるのでは、とか予想したあたりで、今日はおしまいです。
「知ってくれなければ広まらないけれども俗なものにはしたくないのが宗教ですかね?」
「愛は言動を伴わなければ伝わらないのですよ、そこに演出を加えると効果的ですわね」
「口コミで広がることが理想なのでしょうかね”旦那様” 胡散臭くなりませんかね”奥様”」




