49_今そこにいて。
楽曲、演奏、歌唱、舞踊、とかく舞台を見るということを積極的にやろうとする人と、そうではなくて、記録媒体を中心にして楽しむ人となど、どんなところが違うのでしょうか?と少し疑問に思ったので、お話のとっかかりにしてみました、今日のゴブリンです。
とっかかりを軸にして、フライバイして明後日の方向に飛んで行くまでがセットでありますか?もう少し主体性を持つべきかもしれませんが、自動筆記に近いスタイルなので如何ともしがたいものがあるのですと、人工知能疑惑がさらに推し進めてみるわけですが、そろそろ、信じる人が出てきそうなので、控えた方が良いのでは?と後ろの方からの指摘がございましたので、もう少し引っ張ってみる所存です。
後ろの人というのは、誰ですか?という問いに関しては、俯瞰して全体を見て監督をしているような存在とだけ答えておくに止める所存でございます。見ているのは文章だけではないかもしれませんが、今回このお話はほりさげるつもりがございません。
他の人々と感動を共有したいという思いを持つというのが、一つ思いついた動因です。想像するだけですが、現場の一体感というものは、それが好きな人にはたまらないものなのかもしれません。
生で見る、同じ空間、つながっている空間に好みの芸術家がいるという、特別感を得たいという感情、それもまた理由になるでしょうね、と思いつきました。
特別というならば、わざわざ見に行く、という手間暇をかけること自体が、特別な喜びを得る原因になるのかもしれません、苦労して手に入れたという感動は、確かに、想像するに容易いものだと思うのです。
芸術に触れている と、いう、文化的に先進的なことをしているという優越感もまたあるかもしれません。
このようは、演劇を見ることができるくらい、経済的に余裕があるんですよという、見栄をはる、といったような、動因もあるかもしれません、その場合は、その芸術に自分も喜捨しているという精神的な喜びもまた併せ持っている可能性がありますね。
逆に、なぜそこまでして、行きたがるのか?記録映像で十分ではないか、余人を交えず、静かに、好きなように鑑賞できることこそ、至上であろう、と、いうような気持ちの方もいるのでしょうね。このような人にとってむしろ同行の士は無用というか、余分なもののように感じるのかもしれませんし、積極的に排除したいと思っているのかもしれません。
独占欲のようなものでしょうか?そのようなものがあるのかもしれない、と予想いたします。
単純に人混みが苦手と、いうこともあるかもしれません。
生演奏だと、聞くに堪えないようなミスをするので心臓に悪いから、編集してある作品を見るのですという方もいるかもしれません。ライブでミスを連発するプロというのも、それはそれで問題だとは思いますが、複雑な劇とかなら、ありえるのかもしれませんね。そのミスをアドリブで立て直すような感じが素晴らしいと思うので劇場へ直接足を運ぶ人もいるのかもしれません。
楽しみ方はそれぞれだと思いますので、対立することなく、棲みわけたり、いがみ合うことなく、認め合って欲しいものです。どんなパターンでも広く言える一般論ですが、否定して叩き合う、一方的に叩くなどのことは、してほしくないと思うのですが、なぜがなくならない傾向にあるように感じられるのです。
相手を叩きのめすのが楽しいという感情を持つ人が一定数いるのだろうな、と、ぼんやりと思うのです。
闘争本能的には正しいのでしょうか?理性はどこに置いてきたのでしょうか?という展開もたまに見られるようです。
理性をかなぐり捨てるような作品にどっぷりと巻き込まれてしまうような、そのようなファンもまた、一定数いるのでしょうかね?もしそうなら、迷惑な話です。
「彼の好きなアーティストのチケットを手に入れました」
「ひどいプレミア価格じゃなかったですか?”ご主人様”」




