47_自然由来の人工知能。
まず何か言葉を、入力します。それは、名詞でも良いですし、動詞でもいいでしょう、感嘆詞なんかも素晴らしいかもしれません。そしてその言葉の背後に付く言葉を次々にリストアップしていきます、辞書とかがあれば有効かもしれません、記憶の中のデータベースを検索すれば、一瞬ですね、そこで一番頻度の高い、言葉を選択していけば、凡庸な文章が書ける、かもしれないですね?
ここで、選ぶ言葉の重み付けを、していけば、ジャンルを絞った文章を作成することができるわけですが、その重み付けも過去からの文章の蓄積から行ってきます。ここで、ちょっと、一工夫しますと、わざと使用頻度の少ない組み合わせを、若干量混ぜていくのです。
これによって、文章に自然な揺らぎを出して、いわゆる”おかしみ”やら”趣”やらを演出します。ナンセンスやら、意味のない唐突な、話の展開で、コンテンツの受けてを煙に巻くわけですね。こうドロン、ぱと。そのまま話題を消してしまって、新しい話題へと転換すると、あれ、結局結論が出ていないけど?うやむやのまま次に進ませるのが、ははあ、この作者の技術なのだな、と、勝手に関心してくれる、可能性も0ではないわけです。これを、読み手任せの妙技とかいう方も、いるかもしれませんが、実は、私はその表現は聞いたことがありません。
基本的に、文章によって浮かび上がるイメージは読み手任せであるので、今更言うほどのことでもないという、ことかもしれません、事細かに、情景を描写していくとこの問題は解決されるかもしれませんが、座標軸を指定して、色番号で表記していくなら、どんな方が想像で再現しても、同じ絵を表現することができるでしょうね?需要があるかどうかはわかりませんし、そもそも、どこまでもデジタルにしていく文章であるなら、いっそ、絵そのものを乗せてしまった方が、コスト的にも安上がりではあるでしょう。
想像に揺らぎやら、予知が生まれるからこそ、文章で表現する価値があるのかもしれませんし、そんなあやふやものが気に入りません、もっと明確にしてくださいという、好みの顧客が離れていくのでしょうね、そもそも近寄りもしませんが。
とかく、何かを正確に伝えるという点においても、文章というのは、力が弱いフォーマットではないか?とか思うのですが、いかがでしょうか?それだから、幼い時から、文章の読み方やら、話の聞き方やらを練習していくのでしょうね、と、今改めて納得しつつあるわけです。
本来は視覚的な情報を交えて、目の前で実演してくださること、もしくは、そのまま手を触れさせてもらって、やらしてもらうことが、情報を伝達するレベルでいうと最上である、とか思うのですが、いかがでしょうか?最も、目の前で行われているのだから、間違いないという、思い込みを利用したトリックとかは、過去、枚挙にいとまないわけですけれども、具体的には手品とかでしょうか?
意外と人の視覚情報を得る器官は貧弱であるので、直接見ていても、逆にそうであるから騙されることが多い、のかもしれませんね。本来止まっている画像で、少しずつ、ずらして書かれたものを、素早く連続して見させられると動いて見える、程度の能力しかないわけですし。
一秒36コマでしたでしょうか?32コマでしたでしょうか?その光センサに引っ張られうようにして、画像処理をする器官も調整されているわけですから、前後から動きを予想して、補完するように作られているがゆえの、錯覚群ということなのでしょうね。
といった具合に、最初の話題から、順繰りに、いろいろと展開していくことで、ちょっとした長さの文章にしていくわけです、が、さて、この文章を書いている主体が、実は人工知能なのですよ?というと、どのくらいの割合で信じる人がいるでしょうか?
予想では、ほとんど信じないとは思います。さて、この言葉もどのように、意識を誘導しているのか、ちょっと分かりませんね?
人の手によって、作られた知能が人工知能であるのであれば、人工でない知能というのはどのような条件で生まれた、知能なのでしょうね?
ちょっと不思議に思うことがあるのですが、ゴブリンはどう思っているのでしょうか?
このように、主体を放り投げるような、問いかけで、また惑わすわけですが、いかがお過ごしでしょうか?
「彼の家族の名前、私では発音できないんですよ」
「正気がまだ残っていますか?”ご主人様”」




