38_見えなかったもの。
歴史の中で埋もれていたものが、再発見されることは、よくあることだとは思います。火山に埋もれてしまった街、その遺跡の発掘とか、秘境に眠る太古の催事場とか、海底の神殿とか、ロマンあふれる展開もその一部ですし、新しく発見されて手記やら、記録やらもまた、定説を覆す成り行きが、一つの物語として楽しめるくらいには、ダイナミックだと、予想できます。
実際に、ノンフィクションとしての読み物やら、映像作品やらで、その手のものは一定の需要が見込めるほどには、世間の関心があるジャンルであるわけですね。
人が、自分で想像できる範囲のことは、たいてい未来において実現している、という言葉がありますね。どんな荒唐無稽であろうとも、それに似たようなことは、時間をかければ何者かが、もしくは、何者かの集団が、達成している、のではないかな、という希望も含めた発想であるわけです。
それでは、もしかしてですよ、遠い未来においては、どこにも発表されなかった、作品、世の中から消えたのではなくて、そもそも存在していなかった作品、それらを観測できるような、システムが構築されているのかもしれない、という、想像はどうでしょう?ちょっとワクワクしませんでしょうか?
すでに似たような発想で、もし現代に過去の文豪が生きていたらば、どんな作品を世に生み出すだろうか?というコンセプトで、シミュレートしている研究があるようですが、それを一歩か二歩もしくは、百歩ほど進めて、ありとあらゆる可能性を遡ったり、未来を推測したりして、どこの誰かが、発想したのかすらわからないような、概念、しかし、過去確かに誰かが、思い描いていただろう発想を、形つくるような、そんな夢のようなシステムが、遠い未来では完成している、のではないかな、という、予想が、ゴブリンにはあるわけなのですよ。
おそらくその前段階として、過去にどこかに書かれていた作品を推測して、その情報を発見するシステムが構築される、のかもしれないですね。
であるなら、誰にも読まれることのない、見られることのない、コンテンツを、自己満足以外に何のために、形として残すのか?という、虚しさを引き起こす問いを、真っ向から投げとばすような理由になり得る、そんな発想にはならないでしょうかね?
どこかで、誰がか発見してくれるかもしれないから残す、という動因には、未来の科学技術の発達やらに希望を見出している気持ちがどこかにあるのでしょうね。もしくは、今の人としての種が、歴史に幕を降ろすとしても、その後何者かが、その痕跡をたどることのできる何かを作り出して、拾い上げてくれるかもしれない、などと想像して、ちょっと笑っている、そんな作り手とかも、多いのかもしれないですね。
感性が、今の時代やら、もっと大きなくくりでは、人には合わないようなそんなコンテンツを作り出してしまっているクリエイターさんたちも、もしかすると、その作品の提示先を、はるか未来やら、過去やら、時間と空間を超越した所に住まう、何かに向けての、活動であったのだな、と考えると、何とも愉快になるような気がします。
うっかりそれを理解してしまって、はて私は人として正しい感性を持っているのであろうか?と悩むのもまた、面白そうです。まあ、私はゴブリンですので、その辺りは推測であるわけでございますが。
誰も見ていない、だから、好きにする、どんな恥ずかしいことも気にしない、恥知らずなことができる、とか思っている方は、一定数、いるんじゃないかなと推測できます、その方々、もしかすると遠い未来やらではその行動、赤裸々に観測されているかもしれませんよ?
お天道さまが見ているの、別解釈番ですね。
その頃には、何もわからなくなっているからいいや、とか言われると、ああそうですかとしか言えないですけれども、その行為、見られてるかも?と思うといくらか、品が良くなるかもしれませんね。
「昨夜は、いい作品だと思ったんですけどね」
「深夜のテンションだと良くありますよ”ご主人様”」




