291_あおいでくれると涼しいので尊し。
伝統的な血筋を、社会的な集団全体で、敬意とコストをかけて維持したり、権威付けをしたりする行為が幾らかの国家やら、地方に観察されます。無条件にそれに対してかける、尊敬の念とか、負担をすることを喜ぶ精神的な動きに対して、無条件に反発する方々も一定数いるわけでありますが、それはその血統の存在がどのように役に立っているのかを知らないだけでありましょう、という方もおられそうです。
話の方は簡単でありまして、自分たちが大切にしている存在を、相手に近づけることによって、あなたを歓迎しますよとか、敵意はありませんよ、仲良くしてくださいね、というアピールに使えるという意味合いがあるということでありまして、この存在を前面に出しておけば、とりあえずなんとかなるという、外交上の切り札というか、定型文として、使用することによって、相手を簡単する時に新規のアイデアを作り出すコストを下げることができるわけである、と予想できるわけであります。
秘蔵の宝物を相手に特別ですよと見せて、優越感を与えるためには、その存在を大きな価値のある宝物にしなくてはならず、そのために、その存在に多くのその社会を構成している人員が敬意を払っているのでありますよという、行為が必要になるわけであります、つまりは、その存在を大事にしていますよ、大切にしていますよ、という行為そものもが、間接的に対外的な関わりに好印象を与えることになるという、結果になるのでありましょうと予想されます。そのあたりと無意識なところで行ってきたのか、狙ってやらせてきた為政者がすごいのか、この辺りは、裏の事情が見えてこないと判明しないところではありますが、なかなかうまくできたシステムではありそうです。
当然その存在に向けられる行為や、尊敬の念は、ある程度のレベルで止められるような仕組みも必要はあるわけでありまして、例えば、その存在に実際的な力を持たせないなどという安全策を取っているわけでありましょう。熱狂に動かされ、集団で、明後日の方向へ、走りだした歴史もあるようでござますので、これは正しく歴史に学んでいるのでありましょうと、おっしゃっおられる方も多いようでございます。
ただ、その熱狂という感情と、それを大切に思うという感情は結構近いものがありますので、そこのところを上手く制御させつつ、民衆の感情を乗せて行かないといけないのでありましょうと、あまりにも狂的にそれをたたえ始めますと、いやそこまでしなくていいでしょうというような感情を、それとは遠いところにある方々に、こう精神的に遠くに行かれてしまわれることがありえまして、そうなりますと、その存在をもってして、外交をしようとする試みに対しても、得体の知れなさが先に立ってしまって、有効に働かない可能性がありそうですです。
神秘さを前面に出して、雰囲気で圧倒させるという戦略ならば、その方向性はありそうでありまして、実際にそのように行っていた国や地域も過去にはあったようであります。その有用性はこれはその周囲の状況やそこまでに至る時間的な物語にも関わると、予想しますので、最大化されることもあったでしょうし、逆効果になったこともあったでありましょうね、と予想するわけであります。
つまるところ、社会的な組織が、特別な思いを抱いている存在を、象徴として対外的に方向性を示すということは、まさしく数の力、民衆が行うことができる、選挙などとは違う、文化的な戦力であるのではないでありましょうか、という過激な意見も、どこかに見られそうであります。
方向性が統一された意思やら思想やらは、それだけでも大きな力となり影響力が高いわけでありますが、その方向性を定める、対象、偶像やら象徴やらが、きちんとあることで、その力は大きくなるのでありましょうし、同時に形を決めてしまったが故に、概念が固定されてしまい、取り回しには注意が必要になってきているのであろうな、と予想する次第であります。
どちらにせよ、そのような存在をになってしまった方々は、これはまあ、負荷が大きいだろうなと、それに耐えられるという点のみでも、尊敬に価するのではないでしょうかね、とあまりゴブリンらしくな語りで、今日はおしまいです。
「不敬とか言われませんかね?」
「私はゴブリンですので”ご主人様”」




