229_名作は格言を生み出すためにのみ存在する。
過去未来にわたって、小説やらエッセイやら哲学的な趣があるような詩やらは、そのエッセンスが凝縮された長くとも数行にわたるくらいの量の一言、つまりは格言を作り出すために存在するのではありませんでしょうか、としたり顔で述べる方々を見かけるような世相を観察することが多い、という掴みで始まる今日のゴブリンです。
その格言だけを抜き出して羅列する口調は安っぽくなるのでありますけれども、それを狙って成している可能性が高そうな方々も見受けられて、これはこれで計算高いと評価するべきではなかろうかと、コーヒーを片手に批評する方々も観察できるわけであります。
格言を作るために作品を書きあらわしたのではなくて、質の良い作品に相応しいまとめの言葉が生まれたというのが順番であることは、これはもう言うまでもない自然な流れでありますが、往々にして格言だけが一人歩きするのは、全体を読んでいる、鑑賞している暇がないという歴史の積み重ねの負の連鎖でありましょうと予想する次第でございます。
文字によって、書物のようなものにて記録を取るようになった瞬間から、膨大な資料、作品に埋もれていく文化が発生するのは予期されていたわけでございまして、適度な忘却を積極的に試みる、もしくは、取捨選択を強いられてしまっている、つまりは物理的にすべての作品を鑑賞することは不可能であるとなったことで、その作品を一言で表したり、代表するような語句のみを、得て利用することで、擬似的に満足するしかなくなってきてしまったので、結果として、格言だけがクローズアップされることになってしまい、その語句、エッセンスを支えるべきである土台を無視することになってしまうわけでありまして、そうすると、その作者としては、本文も読んで欲しかったとやるせない気持ちになるのかもしれませんが、過去の人の気持ちは類推するしかなくて、明後日の方向へと予想が飛び去っている可能性も否定できないわけでございます。
むしろこれからは、この格言を生み出すために作品を作り出すように思考をシフトしていくのもよろしいのかもしれません、大衆に受ける、長く記憶に残るようなものを作り出すという目的であるならば、長い胡乱な物語の羅列は、これは不利な特徴となるわけでありましょう、最も逆に延々と長く続いているという、特徴によって、格言の代わりにするとか、その形態そのものを格言的な、シンボルにするという試みではあるまいか、などと解説を行っている方々も一定数おられそうでございますが、そこまで考えているのでしょうかという反論も同時にありそうでございます。
そもそも長くなってしまうお話は、あまり評価されないという、意見も古くからあるようでございまして、くどくどと長い説明やら、修飾過多な描写などは、むしろジョークとして使うべきではなかろうかというような流行りとされていた時代も観察されます。逆に冗長であるというタブーをあえて行うことでその作品の特色としようとする、オリジナリティーを出そうとしている戦略もまた正しい判断であった可能性はあるわけでありまして、言うまでもないのですが、何者にも可能性のみは存在するわけでありますが、極小の可能性、0に近い確率というものは、存在しないと等しくしてもよろしのではございませんか、という皮肉げな言葉を吐く口ひげをひねる、執事風の男性を脳裏に浮かべると渋い感じでよろしいかもしれません。
とにかく端的に短く切れ味よく表現することが最善であろうとするならば、究極には白紙の原稿が雄弁に語るということにもなるまいかなどと想像するわけでありますが、スペースキーをただ連打するような文芸作品はこれはまた、人を選ぶような気がいたしますし、当然どこかにすでに存在しているのであるまいかと、予想するわけでありましょう。本当に見つけてしまうと、さすがですねと驚愕する次第でありますが、商業ベースではまだ未達の領域であるのかもしれません。
広告次第ではそれでも売ってみませましょうという商人はおられそうです。
「愛や恋に関する格言は参考になりますよ」
「別にそれに従っているわけではないのですよね”ご主人様”」




