2100_名案を分けずに黄昏で踊る。
指示をしたくなる層というものは一定数存在するのであろうかなとか、先達として己の失敗を活かしてほしいという気持ちがあるのは確かではありますが、それが正しい指摘であるのかという所には評価が分かれるところでございまして、そもそも環境やら状況やらそこに至るまでの歴史的経緯やらが違うと的外れなものになるわけでございまして、具体的になればなるほどその傾向が高いのではなかろうかなとか、ぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
でもまあ、明確にそれは間違っているというところは指摘しなければならないと思うわけでございまして、はい危ないのでやめましょう。今日も元気可愛いですな。
指導は行為として難しい部類であるということはもちろんでありまして、学ぶ方にも技術がいるというわけではありますし、それを学ばせる技術を得られるようにするためにどのような内容にするのか筋道を立てるのかということに、つまるところ学習させる方にも技術が必要になるわけでございます。
学ぶ意欲というものはこれはそれほど簡単に出てくるものではなくそもそもそれがなくともなんとかなるように構造を構築することが必要ではありますので、基本、惰性でどうにかなるように習慣化させる必要があるのではなかろうかなという予想がございます。いわゆるやる気を出すまで待つということはできるものではないのではなかろうかなという。
明確な利益を指し示して誘導するというやり口と、明確な不利益を指し示して、追い込むというやり口とどちらが良いのかという話になりますと、どちらも一長一短であり、時と場合によって使い分ける必要があるのではなかろうかなという意見が多勢を占めるのではなかろうかと予想するわけではございますが、当然それ以外の道もあるのではなかろうかなという発想が出てくることもまた自然でありまして。
特に明確に何かを示さなくとも、流れで誘導できる場合があるのではなかろうかという、無意識に働きかけるという話ではあり、好奇心に訴えかけるのではありますが、それもまた前面に出すようなものではなく、いつの間にかやらせてしまっているやってしまっているような誤魔化しの部類になるようなものがあるのではなかろうかなとか予想するわけでございまして。
おおよそ会話やら対話やら関わっていくうちにそれが発生するようなやり口になるのではなかろうかなという予想がございますし、もしくは物語に組み込んでしまうやり口も可能ではなかろうかなという話でもございます、典型的な、紋切り調な、横に習えではございませんが、みんながやっているのであるから、自然に習うようになる、常識として意識しないままに素直に受け取ってしまうような雰囲気に流される、流してみるやり口がありそうに想像するわけでありまして。
流行にする、流れにする、雰囲気を作り出す、環境を整える、大回りに見えるように見えて、確実に進むように準備をすることが大切なのではなかろうかなという話になるのではなかろうかなとか、具体的にはどうすれば良いのかというと、これはもう個々の条件によるので一概には言えないということでございますが、大体は何かに巻き込むことが必要になるのではなかろうかなとか。
ある意味追い込むことになるのではなかろうかという意見もまた正しいわけではありますが、明確な敵が存在しないままに、危機感やら安心感を得るために学習させるというやり口が効果的なのか、逆に敵の存在災害やら今そこにある危機やらを明確にして目標をはっきりさせて行動させることが効果的なのかは、これもまた条件やら状況やら環境によって評価が分かれるものでありまして。
つまるところそれを見極めて、対応することができるかどうかという所に、学習をさせるる側の技術が必要になる、そこを高める必要があるのではなかろうかなとか、そこのあたりを客観的に定量化しつつ、観察できるもしくは観測できるようにしつつ、それに対する一定の反応を返すことができるように、構造を構築できるようにしなければならないのではなかろうかなとか、この辺りは抽象化ができれば、学習進度は格段に進ませ安くなるのではなかろうかと予想するわけであり。
おそらくはそのような内容に近い、技術はすでに開発されているのではなかろうかなとか、ただ独特であるので一般化していないか、逆に当たり前すぎて、誰も意識していない可能性があるのか、どちらかであるのではなかろうかなどとぼんやり想像したあたりで、おしまいです。
「神様は先生に向かない気はいたしますね」
「個人個人の資質を観測できる機器やら仕組みが欲しいですね」
「ちょっと手本にするには遠すぎる気はしますな”旦那様”
ステータス表記とかできればよろしいのですがな”奥様”」




