2098_気がなんとかなのはなぜに禁止用語。
常軌を逸しているというか、発想が常人と違うというか、行動がとっぴすぎるというか、理解できないというか、そのての表現で語るのはそれほどまずいことにはならないのではありますが、四文字の気なんとかだと問題になるのはどうしてなのであろうかなという話ではありまして、いやまあ、それこそ伝統とかなんとなくの禁忌というか、そこに至るまでの歴史的な背景があったりしたのであろうかなとか、あったのであろうけれども、その言葉があるということは、日常とまではいかないまでも禁じられる前があったということではなかろうかということをつらつらと思考しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
異端であるとうことを声高に指摘することがすでによろしくないということではないかなという話ではありますな、異形でも可愛らしさは存在するようなものでありましょうか。今日も元気可愛いですな。
言い方の問題であるならば、本質的な解決にはなっていないのではなかろうかというか誤魔化しではあるわけでございまして、でわそうであるならば、別にどう表現しても良いのではなかろうかという話ではありますが、名誉を毀損するという形で裁判に利用される表現であるという、完全な侮蔑の言葉であるから問題であるという、前例の話である可能性も高そうではありまして。
であるならば、それは規制されるべき理由があるということになるのであろうかなとか、ただ単に不快であるというわけではなく、攻撃をされるきっかけになる、過失になる可能性がある、弱点として突かれる可能性が高いので、文化的にもしくは法律的に、あるいは政治的に避けられるべきものであるという話になり、ある種外交やら対話の技術が内にある内容ではなかろうかという話ではありまして。
思考している、指し示している内容が同じであるならば、それはやはりまずい言葉ではなかろうかという話も浮かんでくるわけではございますが、それを発言するのと思考するのでは雲泥の差があるということではあるのではなかろうかなとか、思うことはこれは自由と申しますか、罪に問われないことであり、行動に移さなければ、実のところ表現もまたそれに純するところではあるのではなかろうかという文化が存在するわけではあり。
基本は気に食わないからなんらかの理由をつけて攻撃するための、型として利用しているという話ではなかろうかなとかは予想できるわけであり、そもそも、内面を指摘して一方的に決めつけて貶めることそのものがよろしくないという話でもあるのかなとか、心の内は自由であると共に、その内情を決めつけることはできないという、ある意味当たり前の話ではあるのかと、流れがつながるわけであり。
ではその逆はどうなのであろうかなとか、精神のあり方を誉めそやすような言動はこれもまた決めつけであり、不遜なことではなかろうかとか言えるわけではあるけれども、基本、賞賛されることは気持ち良いことであり、また、評判が上がることはそもそも利益につながるか、それそのものであるので、不確定であっても許される、可能性が高いのではなかろうかなとか。
本質的には見えないものを推測って断定する罪という点では同じものであるはずであるのに、それが取り出たされないのは、周囲に与える利益があるかどうかということでしかないのであるのかなとか、ぼんやり連想するわけでございまして、罪として認識できていないという話ではあるのかなとか。
宗教的とか信仰的な題材ではあるのであろうかなとか、どちらかというと哲学的な問題に近いのであろうかとか、何が正しくて何がそうではないのかという話に、落とし込むと、それは倫理に近いものになるのであろうかなとか、つまるところ社会構造を円滑に維持するような言葉とそうではない言葉で、区別されているということではあるのかなとか、ただそこに優劣というか、正邪を見出すことはこれはこれで傲慢な発想ではなかろうかなとか。
言葉そのものがそもそも不誠実であるのではなかろうかという発想にまで至るとかなり極端ではございますが、情報を正しく伝えるには、これはまあ、言葉そのものは、役者不足であるという話もありまして、必ず誤解される表現になってしまうという、宿命というかこれは構造的な欠陥であり、それを踏まえて使用しなければならないという、ただそれだけの話ではあるのかなとか、ぼんやり連想したあたりでおしまいです。
「はじめにあった言葉からずれているわけですね」
「完璧な情報共有がされる社会というのはまあ終わっている可能性もありますね」
「光があったという言葉から何かが誤魔化されてきているわけですな”旦那様”
そこには何もひらめきが生まれないという可能性が高いですな”奥様”」




