2089_羅針盤、火薬、製紙、三台話。
三種の神器とか三賢者とか三すくみとか、まあ、三という数には色々神秘的な印象があったりするのでありますが、最後のは少し違うような気もしますが、記憶に残りやすい数なのでありましょうかねとか、基本七まではひとまとめにしやすいということなのかもしれませんが、ああ、八とかありましたので、意外と多くの数でも関連づけられるのでありましょうか、百八とかもありそうではありますが、それだけ覚えられるのであれば、数にこだわる必要はないのではないでしょうかと言う感想を抱きつつ、始まる今日のゴブリンです。
数を数えることができるというのは、やはり進歩ではあるのではありますが、抽象的なものを処理できるようになるということの始まりなのでありましょうかね?今日も元気可愛いですな。
大きな数を数える必要のない生活というものもあるわけでございまして、この場合は概念そのものが育たないということになるのではなかろうかなという予想ができるわけではございますが、ではそのような認識の中で、いきなり多くのものが溢れたならばどう対応するのであろうかなという想像ができるわけでございまして。
おそらくは季節の移り変わりというものがないのではなかろうかなという予想ができるわけでございまして、一年という括りがあまり意識されないのであろうかなとか、昨日と今日と明日の違いがほとんどないような場所であるならば、それは多くを数えるということをしなくなるのであろうかなとか、つまるところ、安定した環境であるならば、概念は抽象的なそれは育たないということであろうかと。
楽園では人は堕落するという言い方もできるかもしれませんが、そもそも堕ちるわけではなく、育たないということではなかろうかなとか、刺激が少なく、それほど苦労しなくとも生き残ることができ、それなりの快楽が得られるのであるならば、別に思考という苦労を苦痛を求めることはないのではなかろうかという話ではあり。
ということは思考することは苦痛に繋がるのではなかろうかという発想に至るわけであり、ある意味考えることを始めてしまったが故の罪が発生していると、見立てることもできるわけでございまして、この辺り、宗教とかでどうにかこうにか誤魔化して体系化して構造化して社会に合わせてしまうのであろうかなとか、予想するわけでございます。
純粋な論理的な思考で持ってしてその問題を解決しようという話でもあるのではありますが、そもそもそのような思考をすること自体が苦痛でありそれを避けようとする、工夫としての祈りやら奉りやら、責任転嫁やら、思考停止の材料としての記号であるのであるとするならば、やはり安きに流れるのが生き物というものではなかろうかなとか。
ではそれの何がいけないのかというと、実のところ別にそれほどまずい話ではなく、幸せに生きる工夫ではあるのではなかろうかなとか、ただ、苦痛を好む、快楽とするような方々もそれほど少ないわけではなく、それらとの衝突が、事態をややこしくしている、のかもしれないとか想像するわけでございます。
考えることを快楽としている人格と、苦痛と受け取ってしまう人格が争っている図式が見えてくるわけであり、さらに環境を複雑にしているのは、時と場合によってその人格の嗜好が変化してしまうそれも結構頻繁に思考の苦楽が入れ替わってしまうことであり、ある意味それを快楽としている人格と苦痛としている人格が時間を超えて合い争う関係になってしまっているという話でもあるのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
快楽と苦痛とあともう一つで三すくみになるのであるならば、それは、何も感じないことであるのであろうかなとか、淡々と処理をしていく、自動的な無感動であるのかもしれず、平坦な精神であるのかなとか、ただこれでは、どれの上位にいるのかが、やはり分かりづらいのであるのであるからして、新しい概念的な、ものが必要になるのではなかろうかとか、予想するわけであり。
仮に快楽が苦痛の上であるということであるならば、それを抑制するものが必要になるのではなかろうかなとか、やはりそれは平坦であるのではなかろうか、つまるところ退屈がもう一つの頂点にくるのではなかろうかとか、苦痛の一つとして数えられそうではあるけれども、苦痛よりひどく何も変化しないという事象が考えられるのではなかろうかとか、変わらないということがひどく困るという見立てができるかもしれないとか、ぼんやりと連想しつつ、いや、まあ、快楽だけでも良いのではとか、台無しなことを思いつつおしまいです。
「二極化で考えれば良いのではないでしょうかね?」
「思考する苦痛とそれをしないでいる不利益を天秤にかけるのでしょうね」
「そこをあえて三極化することで思考を回すのですな”旦那様”
今の不利益が未来の利益というそういう思考すら厭う方もいますな”奥様”」




