2081_福男、福女、どちらとも言わない福人間。
もしくは福人とかいうのでありましょうか、男女同権の世の中でありますので表現に気をつけなければならないということは確かではありましょうが、少々、響きが悪いわけでございまして、福の人とか、御福の方とかどうでありましょうか、いやまあ何をするのかというと何をするんでしょうかねという肩書きではあるわけでございますが、運が良い人とかに与えて、称号として、それにあやかってお祭りをするような感じでありましょうか、もしくは祭事の結果としてのそれなのでありましょうや?などとぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
福福しいとかの表現もあるのでありましょうか、幼児はその象徴とされているような感じではありますが、健康状態の良い子供はそれだけで富の象徴であったとかなんとかそんな文化なのでありましょうかね?ちょっと太り気味なのでおやつはここまでに致しましょう。今日も元気可愛いですな。
運が良いから福がくるのであって、福があるから運が良いということではないのではなかろうかなという話ではあるのでしょうね、こう結果から逆にああ、あのかたは福があるから運が良いのであるとか、行いが正しから良い見返り見たいなものが返ってくるのであるかなという納得の構造なのでありましょうか、こう、因果関係がなければ、僻みが集中してしまうからであるからかなという。
まあ、運だけが良いという話になるとまた別の話になるわけでございまして、本人の努力とか苦労とかがろくに見られなくて、結果だけが素晴らしいというか、利益だけを享受しているという風に評価されると、対人関係が難しくなるという話ではありますので、そこになんらかの理由をつけて納得しているのではなかろうかなとか。
逆方面でもあるわけでございまして、これだけ運が良いことが起こったのであるのなら、次は反動でひどいことになるに違いないという予想を勝手に立てることで、精神の安定を得るような感じであるのかなとか、逆もまた然りということではあるかと、禍福は糾える縄の如しとかなんとかの故事もあるようではありまして、いや人間万事塞翁が馬であるという言い方の方が良いのであろうかなとか。
運不運はつまるところ対人関係をなめらかにする工夫に基づく概念であり、実際にはないものであるという話ではあるのでありますが、これがもしそれらしいものがあるということになると、途端にお話として面白くなる、こともあるのではなかろうかなとか、現実的ではない幻想的な物語とか、ご都合主義とか、そのての話は、一定数望まれるものでもあるわけでございますし。
ただ、それが見えていない努力やら、工夫やらの結果呼び込まれるものであることもまた確かではあり、確率的にあり得るのであるならば、その確率の振れ幅を大きくする、もしくは当たり判定を広くするとか、その手のやり口は当然可能ではなかろうかという話ではあり、また、偶然にせよそれが手に入った瞬間に適切に運用できたり対応できたりするやり口には、知性やら技術やら、それまでに培った経験がものを言う可能性が高いわけでございまして。
広く浅く網を広げることによって、運というか、出来事の好転を拾いやすくしていき、そのための資源を投資するというやり口が、成功への近道というか、王道なのであるかなとか、一点に集中して資源を注ぎ込むことはこれは当然危険度が高いと言わざるを得ないわけであり、まあ、それほど珍しい意見でもなく。
ではどれだけ、薄くすれば良いのか、広さはどうすれば良いのかというと、これはまあ、その時々の環境やら状況やらそれまでの物語によって変化してくるわけであり、一概にこうすれば良いという話にはならないのであり、できることは、似たような事例を調べておき、流れを予想するとか、もし当たらなかった場合でも損が低くなるように立ち回るとかのやり口を学習するという話ではあるのではなかろうかなという話ではあり。
とどのつまり運だけに頼った運用はこれはかなり危険度が高いという当たり前の結論が導き出せる話ではあるわけでありまして、それはそれとして、幸運とか豪運とかに憧れる気持ちもあるのであるからして、その辺りを上手に演出することによって、購買意欲だけではなく社会活性化とかなんとかの生きる意志を維持させている、のかもしれないとか、ぼんやり連想しつつ、おしまいです。
「結果として幸福になるのであって、最初から求めても良くないという話もあります」
「幸運が続くのはそれなりの理由があるという、統計の話にもつなげれそうですね」
「そこはかとなく期待するくらいがちょうど良いという話なのでしょうな”旦那様”
現象が偏っているならどこか歪んでいるのでしょう”奥様”」




