2079_あらし、ゲームセンター、ヨガ。
肉体を酷使することは快楽につながるのであろうかなとか、苦しいということを我慢することによる脳内分泌物の刺激というものはそれほど悪いものではないのかというと、合法であるので大丈夫であるという話になるのかということと、身体に良いのかということとは別の問題でありますが、適度な運動が健康に良いこともまた確かであり、なるほど、自然に淫美にできているということであるのかなとか、明後日の方向へ連想が妄想したあたりから始まる今日のゴブリンでございます。
快楽を得られるからこそ騒ぐのであるかなとか、つまりは苦しみからの誤魔化しであるのであるけれどもそれが効果的に得られるのであるならば、それは良いことになるのでしょうかね、いやうるさいのは困りますが。今日も元気可愛いですな。
逆に動かないことによる肉体の不調も快楽へと変換されてしまうのではなかろうかなという予想も立つわけでございまして、あらゆる苦痛が快楽の種となってしまうのであるならば、それもあるのではなかろうかなとか、普通はそこに至るまでに精神的肉体的に限界がきてしまうことになるのではなかろうかという予想もできるわけではございますが、上手にはまってしまうと、抜け出せなくなるような、罠的な嗜好にはなりそうではあり。
忠誠心とか、滅私奉公とか、艱難辛苦を与えよとか、まあその辺りの自ら苦痛やら縛りやら、制限を与える理屈やら理由の一端としてそれが快楽を生むということがあるのであろうかなとか、むしろそうでなくては続かないというか、入ろうともしないのではなかろうかとか、基本脳みその誤魔化しに屈しているのではなかろうかという予想もできるわけでございますが。
誰にも迷惑をかけていないなら良いではないかという意見と、迷惑をかけても良いではないか、その分の利益は与えられているのであるからという意見と、そこは節制することで、さらなる別の快楽の地平が見えてくるのではという意見と、建前だけでもどうにかしたほうが良いのではなかろうかという意見と、いや、全て詳にすることによって、遠慮を無くしたほうが円滑な対人関係が得られるのではなかろうかという意見と、まあ、この辺り色々ありそうではあります。
基本それらは時と場合と環境と条件と、そこに至るまでの歴史的な背景やら共通認識によるのであるという、いつもの結論に集約されてしまうわけではございますが、そこのあたりの塩梅が適切に判断できるかというと、これもまた無理ではなかろうかなとか、感情が暴走してしまうことがありそうであり、実際にそうなることが観察されに置いて、逆にそうなっても致命的な破壊につながらないように構造を構築しておくことが肝要なのではなかろうかなという話ではありまして。
そういうことがあるかもしれないという予想を共通認識で共有しておくことが肝要であり、そうしてはいけませんと言うだけでは無駄ということを知っておくべきではあるのかなとか、そうなる瞬間、魔が刺す瞬間は常に0にはならないわけであり、確率的にはいつか発生する可能性が高いものであり、であるならば、それが成った瞬間に対応できるような、もしくは終わった後に修正できるような体制が必要になるのであろうかなとは、予想するわけでございまして。
予防も確かに大事ではあり、これはまあ、脳内麻薬の分泌が顕著に行われるような方々に、肉体をいじめぬくようなお仕事を振り分けるということにもつながるのではなかろうかなとか、それから一歩進んで、そのような分泌物を積極的に放出するような学習を受けさせて体質を変えさせることが求めるとかもありそうではあります、投薬とかだと不穏すぎるので、食生活の変化で持ってして改造してしまう、洗脳してしまうやり口はありそうであり。
これを社会全体へと広げてしまうというか、一斉に緩やかに変質させ始めて仕舞えば、苦痛を快楽とする民衆が過半数を超えるような夢のような社会が構築できるのではなかろうかという話でもあり、むしろそれは悪夢よりではなかろうかという話ではあるものの、実際に渦中に置かれてしまった段階であれば、むしろ救いになるのではなかろうかという見方もできるわけでございます。
消耗が早そうであるという問題は、これまた付き纏いそうではありますが、その代わりに、代替わりが早い、次代の育成が加速する、人口が増えるという流れもありそうであり、なぜなら、出産育児が苦痛であるからであり、今でもそれを快楽と誤魔化しているからこそ種が続いているからである、という妄想を浮かべたあたりで、おしまいです。
「神様を信じることも苦痛を楽しむ手段ではありますね」
「快楽物質だけを作り出す薬という手もありますが、それはまあ違法的ではありますね」
「ある程度被虐的でなければ信仰は成り立たないかもしれませんね”旦那様”
快楽を得ることが主体になると種の存続が成り立たなくなるわけです”奥様”」




