2033_時期を見るハイド。
人の二面性はよく取り立たされるような印象がございますが、これは間違いであり、二面くらいで済まないということが本当の話ではなかろうかな、と想像するわけでございまして、周囲の環境によって結構出力が変化することはあることでありそれは内面の思考にも影響を与えているのではなかろうかと予想するわけであり、実のことろ個性やら自我やらは、環境依存であるとも言える、かもしれないとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
面白そうなものを見てそれに手を出す、幼児の行為はそれはそのまま大人になっても続いていくのでありましょうね、いえ想像力が育てば理性で押し止められるかもしれませんが、はいそれは危ないですからね?今日も元気可愛いですな。
外的要因が精神に働きかけるということは確かでありまして、そしてそれは、周囲を取り巻く環境は運の要素がかなり絡んでくることになり、その結果の人格構成やら、趣味嗜好やら、優先順位の確立やらに、本人の責任がどこまで問えるのかという話にもずれていくわけでございまして。
客観的に見るならば、実のところ個人の行為そのものに明確な責任はなく、それが必要とされるのは多分に感情の領域であるということになるのではなかろうか、どうしようもないということを認めたくがないための誤魔化しであるとか言い切ってしまって良いのではという過激な意見もありそうではございまして。
周囲が悪いので社会が悪いので、個人に責任を負わせることはやはりおかしいのではなかろうかという発想と共にでは全く罪に対する罰を与えるという行為が無意味なのであるかというと、それを止めることもまた周囲の環境からは外れたものになるわけであり、強いるのは自然な流れと申しますかそれこそ環境要因の結果であると言えそうでございまして。
どうしようもないということを認めたくない、認められない、認めることができない、そのような環境に侵されているからこその仕組みであるのであろうかなとか予想するわけでございまして、個人の意思が明確にあるという幻想の元で成り立っている構造であるのであろうかなという予想はできるわけでございますが、それがあるということも、ただの見立てに過ぎず、まやかしやら、詭弁に近いものがあるのではなかろうかという、意見もそう珍しくはないのではなかろうかと、予想するわけでございます。
意志の有無、自我の有無が歩かないかを論じることをとりあえず棚上げしておいて、あるという前提で構造を構築しているわけでございまして、領域が違うのではなかろうかという、ように納得してから初めているわけであり、逆にいうならば、そこを争点にするならば、大きく構造を変質させなければ、実用的な運用があり得ないということになる、のではなかろうかなと予想するわけでございます。
どのような理屈で現状を納得しているのかと予測しますと、やはり自我はあるということにしているのであろうかなとか、独立した確固とした、個人の意志やら意識やら責任を取れることのできる人格が、時間と共に学習されて形成されるということにしているのであろうなと、ただ、洗脳やら暗示やら、その手の特殊な環境における例外を認めている状態ではあるのであろうかなとか、つまりは相対的なものとして捉えているのであろうかと、予想するわけでございます。
大多数の方が同じような経験をすれば、同じような反応をするのであろうなというものを基準にして、法律やら道徳を構築しているのでありまして、それに例外があるという形をとっているという効率的な構造を形づくろうをしているのであろうかなと予想できるわけでございますが、やはりかなり無理が生じているように観察されるのは、そもそも環境的なあれこれをあまり評価していないからであるかなと予想できるわけでございます。
ここでいう環境的な差というものは別に特別な、特殊なものではなく、日常的なものであり、ただ、それがどのような順番で、どのような組み合わせて、情報が入力されているのかという話であり、実のところ個性とか呼ばれているものはそれらの組み合わせに過ぎず、なんら意志の力によって制御できるところを超えたところで形成されている、のではなかろうかというものでございまして、それを考慮し始めると、考慮する領域が大き過ぎて手に追えなくなり、または時間がかかり過ぎて、実質対応が不可能になるので、多くを切り捨てて、体裁を整えるしかない、のであろうかなとか、仮にこれらが技術的に解決できるようになるならば、かなり、社会と申しますか、自我やら意識の定義が変化するのではなかろうかなと、連想を発散させたあたりで、おしまいです。
「汝に罪なし、という言い方もできますよね」
「個人の領域にこだわることと、評価もまた別の話になるのでしょうかね?」
「基本無責任でしかあり得ないのですよね、人格というものは”旦那様”
他人事じゃないけれども客観的でなければならないという矛盾でしょうか”奥様”」




