2027_戦意高揚、春は揚げ物。
熱狂的な熱湯とかどうでしょうか、いやどうでしょうかと聞かれても困るという対応になりそうではございますが、気持ちが昂るような表現と料理とは意外とその本質が似ているのではなかろうかという、いやどうしてそのような連想になったのでありましょうか、ただ音が似ているだけではなかろうかという、疑問を、黙殺しつつ始まる今日のゴブリンでございます、お腹が空きませんか?私は結構空いています。
おやつを先ほど食べたばかりですよ?結構食欲が旺盛でございますな。夕食が食べられなくなるので、あと少しだけですよ?今日も元気可愛いですな。
揚げ物とか結構物騒な響きなような気がするわけでございまして、餡子の半殺しとか全殺し
とかは有名ではありますし、煮物とか落とし蓋とか、蒸し上げるとか、炒め合わせるとか、こう意外と戦意高めの響きを連想させそうな気がするわけでございます、潰して混ぜるとか、単純に焼くとか?
これはまあ、元々が生き物であったものを食べられるようにする、食事というか、捕食が結構野蛮な印象があるというか、血生臭いということがあるのであろうかなという予想ができるわけでございまして、丁寧に言っても命を頂いているということでありますので、まあ、殺生が基本であり、命のやりとりをしているとも言えるわけでございますから、調理関係の語句がそのような方向性を持っているのではなかろうかなという予想でなのでございます。
それはもう、野生の肉食獣とかは、狩りからの食事がそのまま地続きでありますから、暴力的なものが食事に含まれてしまうということではあるのではなかろうかなとか予想するわけでございます、草食獣ですら、草木をこう、破壊しながら食するという動きには違いないわけでございまして、なるほど、確かに争いに近い動きがあるのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
人間の食事もまた、食材を狩るところは分業ではありますが、容易に想像できる範囲であり、それは、包丁などで切ったり、ひき肉にしたり、その後に、熱で調理したりして、基本破壊すること、害を与える、打撃とか衝撃とか、まあ、その辺りの、否定的な印象を与えるようなことを行っていくわけでございまして、暴力的であることはこれは仕方がないと申しますか、むしろ自然ではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
では、調理自体に嫌悪感を抱かないのはなぜなのであろうかなとか、いやまあ、多少は抱いているような場合もありそうではございますが、生きるためという理屈が立っているからであろうかなということに他ならないのではなかろうかという、予想ができるわけでございまして、いわば生存戦略的な意識のずれというか誤魔化しなのではなかろうかなという、予想でございます。
もしくは闘争本能とか狩猟本能とかそのような流れと申しますか、生き物としての生きていく上での共通的な認識、それがあるが故に、生き残れてきた結果としての性質に由来しているのではなかろうかなとも予想できるわけでございまして、それに忌避感がない個体が、もしくはその群れが生き残ってきたのであろうかなとか、予想するわけでございます。
昨今ではあまり血生臭いことをしなくとも生きていけるくらいの文明とか科学が発達したように観察されるわけでございまして、そのような暴力的な調理を避けることができる環境が生まれたからこそ、調理の暴力性を否定する、忌避感の強い、方々が、生き残ることができるようになってきた、とも言えるのかもしれないと、これはこれで、多様性であるのではなかろうかなとか、生物としては淘汰された、消えてきたものが復活したように見立てられるので、ある意味、絶滅危惧種の保全に近いように受け止めても良いのかもしれません。
どちらが正しいのかということではなく、いや、流れ的には各種肉食、草食、調理派の方が正統ではあるわけでございますが、新たな可能性としてのそれ以外の生き方という意味合いでは、やはり、どちらも正しいと申しますか、正解不正解の違いをはっきりさせる意味は無いのではなかろうかなという感想ではございますが、少数派としては攻撃的に振る舞わなければ、その位置を確保できないという不安や、事実もあるのかもしれないと予想するわけでございまして。
調理に対する冒涜性、攻撃性を忌避したが故に、行動が攻撃的になる戦闘的になるというのは結構皮肉であるのではなかろうかなとか、笑えますね、あはは、おしまいです。
「美食に溺れる人も肯定することができる神様はいそうではありますね」
「調理が汚れであるという文化圏もありますね」
「産めよ育てよ地に満ちよ、の前にまあたらふく食べよですな”旦那様”
直接手で触れないようにして魚を捌く作法がありましたな”奥様”」




