2018_メメントメモリーな記憶。
初めて訪れるのに、前にも来たことがあるような気がする錯覚と、何度も訪れているのに初めて来たような気がする錯覚と、やはり似たような理屈で発生しているのではなかろうかという予想が立つわけでございますが、記憶分野の研究はそれこそ山のようにやられているはずであるはずでございますので、まあ、無駄話以上の何かにはならないのであろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
すでにそれは食べてしまったおやつなのです、いつの間にか無くなっていたのではなく、それを忘れているだけなのですよ?今日も元気可愛いですな。
脳みその中だけに収まっていはいない記憶というものがあるのではなかろうかなという予想もございまして、膨大なそれを想起するための仕掛けが周囲にあるのではなかろうかというものでございまして、外部記憶のようなものが、自然に存在しているのではなかろうかという予想がございまして。
外界からの刺激を元にして記憶が蘇るならば、それは一つの脳みその外に記憶の要素があると見立ててよろしいのではなかろうかとか、想像するわけでございまして、それを極端に押し進めるならば、実のところ記憶に脳みそが必要ない場合があるのではなかろうかとかまで行き着くわけでございまして。
それを見たり聞いたり嗅いだり触ったりすることで特定の記憶を呼び起こすような仕掛けができるのであるならば、それはすでに脳みそを必要としていない記憶容量であるのではなかろうかなとか予想するわけでございまして、つまりは、一つの脳みそを超えて、情報を、記憶を伝達できるのではなかろうかなという予想でございます。
これは文章やら映像やらで、記録を見せることによって、脳内で再生するとかの話にも似ているわけでございまして、それを読んだり見たりすることで、当時の記憶を再現できるようになるならば、それは立派に外部記憶と呼べるのではなかろうかなと予想するわけでございます、がしかし、そのような鮮明に記憶を蘇らせる、再現できるような文章や映像は未だ完成してはいないわけでございまして。
ただ、将来的には五感全てを再現するような記録装置が登場するのではなかろうかなという予想もあるわけでございまして、そうすると、その当時の記憶の共有まであと一息なところになるのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。そうなると、個別な記憶の特別性が無くなっていくのではなかろうかなという予想もできるわけでございまして。
簡単に共有できるようになるならば、自己と他者との区別が難しくなるか、必要なくなる可能性がございまして、それは、気味が悪いという印象が未だ拭えないのが現状ではございますが、後々、時間の経過とともに、それらは古い感性となっていくかもしれないとか予想するわけでございまして、そもそも自他の区別が必要なのかどうかという議論すら生まれてこなくなるような構造に変質していく可能性も出てくるわけでございまして。
そして、そうなれば、あえて、自己を確立させることが趣味的な、もしくは娯楽になっていく可能性もありそうではございまして、こう、贅沢なとか、嗜好品的な扱いになっていくわけです、個性というものが。もしくはそれをどう守っていくかが、生きる意味とか、生きがいになっていく可能性もありそうではございまして。
周囲の環境やら状況やら、情報によって記憶が保たれる、想起される、受け継げられるのであるならば、実のところひとつの脳みその機能停止がそれほど問題視されなくなるのではなかろうかなとか、つまるところ、ひとつの道具に過ぎず、代替が効き、さらには、全く無くなっても、問題がないほどに、情報の独立性が保たれるのであるならば、肉体に囚われた思考そのものが、趣味的な扱いになる、可能性があり、しかしそれが娯楽性が高いとなれば、その保全にかなり資源を注ぎ込むことになるのではなかろうかなとか、予想できるわけでございます。
いわゆる転生とか生まれ変わりとかがあまり珍しくなくなってきていると申しますか、過去の個性が、周辺環境情報によって、焦点を結んでいつその脳みそに再現されるかしれない構造に変質された場合、それを念頭においての、社会構造を構築する、ふさわしい倫理観が生まれてきている、可能性がありそうではあるかなとか。
自己同一性を保つことが趣味とか娯楽とかになる社会とか楽しそうではございます、というところでおしまいです。
「神様の思考が再現される環境とかもありそうではありますね」
「情報そのものを生物として捉える、見立てもありますね」
「私は神様である、が冗談にならない社会とか面白そうではあります”旦那様”
情報生命体とはちょっと違う概念なのですよね”奥様”」




