2010_ハシにもボウにも蓮根。
木の棒は槍にもなるし刀にもなるし薙刀にもなるとかなんとか万能説があったりなかったりするようではございますが、銃器には敵わないので個人の武勇というものは意味がないのではなかろうかという身も蓋もない意見があったりいたします、限定条件での戦力ということを考えると、体を鍛えておくことに優位性は覆されないのではなかろうかなという、予想もあるわけではございますが、ある意味浪漫枠なのでありましょうかね?とかぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンです。
一子相伝の必殺剣とかとか拳とかはないですね、いやそれっぽく振る舞っていますけど、子供のお遊びですな。意外に威力ございますね。今日も元気可愛いですな。
ある程度筋力を鍛えることは健康に良いのではなかろうかという意見がございまして、これはおおむね正しそうではございます、肥満の防止にもなりますので、日に数十分の運動は推奨されている、ようでございます、同時に関節を動かして、筋を柔らかくすることも、事故防止に役立つような面がございますれば、これもまた推奨されるべきこと、なのではなかろうかなとか、想像するわけでございます。
柔軟体操はやりすぎると筋力が落ちた時に関節周りが柔らかくなりすぎてかえって身体の保持に不具合が出る可能性があるという話もございまして、程々がよろしいのではなかろうかという意見もございます。同時に体をほぐす場合にもゆっくりとじわじわとするような静的なものよりは、自然に動くに任せて、全体で動的にする方が、筋などを痛めないとか言われているようでございます。
身体にまつわる常識も常に変化しているのではなかろうかなという予想でございますが、全く動かないことはやはり良くないという話であることは違いないようでございまして、正しく運動をすることは必須なのであろうかなという意見は広く受け入れられている、ように観察されるわけでございます。
過度な運動は健康を損なう恐れがありますという話もまた同様な層で有名でございまして、ある意味それを商売にしている方々は、そのあたりの危険を代価にして金銭を稼いでいるのではなかろうかなという予想がございまして、ある意味人生を売り物にしている、寿命を売っていると直接的に言える分野ではなかろうかとか、連想するわけでございます。
最もどのような職種であれおおかれ少なかれ、体力を使用しているわけでございますれば、命の対価として資源を得ているという面には間違いないわけでございまして、殊更に運動選手が際立って特異であるという話でもないのであろうかなとは、言えるわけでございまして、生きるために生きることを対価にしているという、ちょっと矛盾したような言い回しになるのであろうかなとか。
肉体を維持するために、肉体を消費していくわけでございますので、費用対効果、できるだけ損耗を少なくして儲けを出そうとするように、これはまあ自然になっているのであろうかなという予想はあるわけでございまして、それはつまり、死に向かいながら生きているとかちょっと三文詩人が言いそうな状況そのものであるのであろうかなと。
効率よく熱量を確保できなければ、生きていく必要なそれよりも獲得するために消費するそれが多いならば、それはまあ、そのうちに維持できなくなるわけでございまして、逆にいうならば、それがわずかでも消費より収入が上回っているならば、どのような形態でも存続できるわけでございます。
動かないことで熱量を保存し、節約し、わずかな熱量と引き換えに燃料を得る、ような生き方もまたそれほど不自然ではないのではなかろうかなとか予想するわけでございます、つまりは競争しないようにする、のであろうかなと、敵の少ない、競い合うところの少ないところで、淡々と燃料、資源を確保していくわけでございまして、そういう生き物は少なくないのではなかろうかなとか予想するわけでございます。
話題に登らない、知らないということは、それはその生き物の戦場が目立ってない証拠であり、戦略が成功しているわけでございますので、そのような、最小限度の労力で生きている部類の者どものは、目立たないのであろうかなという予想も、できるわけでございます、それは当たり前で、やり口が広く知られてしまったらば、真似をされて、狩場に競争相手が出てきてしまうからでありまして、その前に、そこらを隔離とか囲い込みをしなければならない、のであろうかなとか、連想が発散してきたところで、おしまいです。
「マイナな神様の方が親身になってくれそうな気がしますよね」
「ニッチな箇所を研究するとライバルが少ないので成果が独占できます」
「自分で自分の神様をつくるという手もありますな”旦那様”
誰も欲しがらないので価値が少ないという面もありそうですな”奥様”」




