2007_レーの件、超常現象、頂上決戦。
どのような理屈でそのようになっているのかわからない現象をまとめてしまう概念でありますが、わからないを名づけてしまって、安心しようという試みであり、それほど珍しいものではないわけでございます、ただ、そのうちに科学が進歩すれば解明される事象と、そもそもどこまでもどうにもならない事象と、あるのではなかろうかなという想像もありますので、最後まで目が離せませんとかなんとか、言っておけばどうにかこうにか、格好がつくのではなかろうかなとか、ぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
そうです、それは虚構の世界のことですので、飛び降りたりすると危ないのでありますよ、気をつけましょうね、やらないようにね、できそうですけどね。今日も元気可愛いですな。
偶然の結果であるというものと、それは偶然には起こり得ない現象である何か因果関係があるのでは、と、因果関係がありそうではあるけれども、やはりないのではなかろうかなという事象がある場合、その線引きと言いましょうか、判定をするものとしての道具として統計学がある、ようでございまして。
観測の道具なのであろうかなと予想するわけでございますれば、これを使いこなせば、世界を測ることができるという幻想が抱けるのではなかろうかとか、いやまあ現実ではあるのかとか、ぼんやり連想していくわけでございますが、そもそものところそれを見てどうするのかというところも大事なのであるのであろうなぁと、感嘆してみる次第。
この辺り、それを駆使して世界を見ている、社会を見ている方の思考はどうなっているのであろうかと想像すると、意外と論理からは外れてしまうことがあるのではなかろうかなとか、いや論理的ではあるのではあるけれども、印象がかなり変わって見えるのであろうかなとか予想するわけでございます。
数字を見る時にはその比率も考慮しなければならないくらいの弁えを持っているかどうかですら、見えるものが変わってくるわけでございますれば、普段より統計的に俯瞰している方々と、そうではなく漫然と、目につきやすい数字だけに反応している方とでは、やはり、対応が変わってくるのであろうかなとは予想できるわけでございます。
では、それは常に全ての人格がそのような見方をしなければならないのかと申しますと、現状では難しいではありますが、のちにそのようにするべきである、その方向へいくべきであるという話ではあるのではなかろうかなとか、予想するわけでございます。いやまあ、管理側から見てみると、騙されやすい方が良い場合もあるとは想像するわけでございますが、そもそもそれは長期的にかなり歪みを積み重ねてしまう可能性が高いわけでございまして。
誤魔化しは、その場しのぎであることには違いないわけでございまして、いやまあ、どのくらいの時間を稼ぐのかの違いにしかすぎず、物事は須く誤魔化しである、行動は大体何か失敗を取り繕っているだけであるという、皮肉的な言い方や見方もできるわけではございますが、その程度が現状、悪いのであろうかなという予想でございまして。
正しい数値を正しく見せることが必要ではありますが、完璧には伝えることができないことは明らかでありますし、知りたくない、知らせたくないという、動機が消え去ることはないのではなかろうかという、想像もございまして、面倒臭いことはしたくない、なので、反応しなければならない数字は意識して、もしくは無意識的に、無視しようとする、のではなかろうかなとか、これはできるだけ、無理はしない、熱量を使わないことによって、延命と申しますか、生存確率を増やす戦略ではあるわけで、ある意味自然な反応なわけではなかろうかなとか、予想するわけでございます。
しかし、生き残るためには危険なもの、障害、不具合、不利益を生じる何かをしっかりと知り、感じ、それに対応しなければならないこともまた確かであるが故に、この辺りを学習しようとする流れが出ることもまた、自然な流れでありまして、ここで、社会的な生き物であるが故に、分業という発想や行動や、結果が生まれるわけでございまして。
世の中を正しく観察して、わかりやすく伝えて、導くというその役割を分業してしまっているのであろうかなとか、誠実にそれをその役割を与えられた方々ができるかというと、これはまあ、ちょっと怪しいものが現状ありまして、それでもどうにかなるように構造が、結果的にできてきている、ということが、今の社会であるのかなとか、ぼんやり想像したあたりで、おしまいです。
「神の名を騙っても結果がついてくれば良いのではないかという発想ですね」
「理屈を理解できるくらいの学習は必要なのではなかろうかなとは思いますね」
「言い続けてれば、そのうち神様になるという展開もありますな”旦那様”
全体の底上げは必須ですな”奥様”」




