2005_刹那、切ない、メランコリック遊具。
世の中を儚んでしまような遊び道具とかどこに需要があるのであろうかなとか、想像するわけでございますが、意外とそのような悲しみで心を揺らすような遊びも普通にあったりするのではなかろうかなとも観察できるわけでございまして、悲劇とか好まれるわけでございますし、どうにかして感動したいという欲求があるのであろうかなとか、ぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
泣いて叫んで、でも楽しいという、いや楽しくはないけれども、刺激が面白いというか、後を引くというか、そんな感じなのであるかもしれないですね、怖いもの見たさという感覚が近いのでありましょうか?今日も元気可愛いですな。
幽玄な景色に惹かれるということはありそうではございますし、有名な短編の冒頭では桜の木の下に屍体が埋まっていることを幻視して悦に浸るような描写もあったりするわけでございまして、何か悲しい、気持ち悪い、幻想的な、死を連想するような、陰々滅々するような描写には一定の需要があるのではなかろうかなという予想がございまして。
つまるところ安心したいから怖い話が聞きたいという一見矛盾した流れになっているのではなかろうかという予想ができるわけでございまして、それが虚構であるからこそ、安心できるということもございますし、慣れてしまうという話でもあるのであろうかなとか、悲しみで動けなくなることがないように事前に練習してしまっているという面もあるのではなかろうかとか、これは以前にも無駄話にした覚えがあるわけでございますが。
ある程度の負荷は必要ではあるのでありましょうか、感情が不要なのか必要なのかという議論があるのではないかなと予想するわけでございますが、素早い判断を下すには感情かそれに似た仕組みがまだ必要ではあるのであろうかなと、こう、生命の危機に直面したときに咄嗟に動くことができる機構としては必要なのかもしれない、などと予想したわけではございます。
がしかし、感情によって行動が阻害されて被害が大きくなることも同時にあるわけでございまして、ある意味複雑になってしまった環境に適応できていない可能性が高いのではなかろうかな、いやしかし、実のところきちんと適応しているからこその結果である可能性もあるのではなかろうかとか想像するわけでございまして。
複雑系が進むと解決としてのやり口でむしろ単純系が最適解になり得るという話ではあるのかもしれないとか、絡まった糸を苦労して解くよりも、ただただ直線的に、刃物で切り裂くことが早いようなものであるかもしれないと、想像するわけでございまして、どう行動しても、最後には運が絡んでくるのであるならば、手早く決断して同時に処理してしまった方が結果として良い方向に向かうこともあるのではなかろうかとう、幻想とか妄想がありそうではございます。
大体は感情に任せた行動はろくなことにならない、ことが多いのではなかろうかなという観察結果やら予想がございますが、逆にうまくいく事例もあったが故に、色々と判断に迷うのであろうかなとか、想像するわけでございます。ただ、これはどちらかが良いのでこれからはそれだけを基準にしていきましょうという話にはなりにくく、おそれらくはこれからも長い間、揺れ動く中で、折衷案を通していくことになる、のではなかろうかなと想像するわけでございまして、まあ、この辺りはいつもの通りではあるのではなかろうかなと。
おそらくは、感情的に振る舞うことが否定される世界は徐々に訪れるのではなかろうかなという予想はございまして、演劇やら演出やら、虚構の世界のみ、もしくは娯楽としての感情利用に転化していくのではなかろうかと予想するわけでございます、完全にはなくならいと申しますか、概念が変化して行っていくのであろうかと予想するわけでございます。
喜怒哀楽の意味合いが違ってくるのであろうかなと、想像するわけでございまして、それぞれについて極端な差がなくなってくるという感じございましょうか、ただただ、心が動くというそれだけの娯楽に近い何かになっていく可能性が高いのではなかろうかな、そう予想するわけでございます、と申しますか、そこまでいきますと、生きているという意味合いもちょっと変化してそうな気がいたしますな。
死生観がかなり変化しており、倫理観もそれにしたかっがて付随して変容している未来というものが、まあ、遠くにはくるのであろうかなと、ぼんやり夢想したあたりでおしまいです。
「人は神様になってしまって、まあ、不幸になるのかな?」
「冷静に熱狂するような感覚はまあ残りそうではありますね」
「その時には幸せになっている可能性が高いですな”旦那様”
感情が純すいな快楽になっているのでしょうな”奥様”」




