2003_やんすむ、病む感染る、マスク真っ直ぐ。
感染症対策は用心しすぎることもないのではなかろう、と想像するわけでございますが、未来の不具合を想像しないで今の楽をとるという方もそこそこ多そうではありまして、この辺り、楽観主義と申しますか、刹那主義と申しますが、その気があるのであろうかな、と、予想しているわけでございます、危険を考える、不利益と利益を天秤にかけると、まだまだ用心した方が宜しいのではなかろうかななどとぼんやり連想しながら始まる今日のゴブリンでございます。
小さな子はしっかりと大人が感染予防の工夫をしなければならないと思うのですから、これが格好良いということにして、進んでやらせるのが良いのではないかな、手洗い大事ですよ。今日も元気可愛いですな。
現状の不快に不満を持って改善することは良いことではあると想像するわけでございますが、その不快が未来の快楽と申しますか、更なる不快を予防することがわかっているのに、それを成さないのは怠慢というよりは、不可解な行動ではなかろうかな、と思う方も多そうではと予想するわけでございますが、不確定の未来においては物事を都合よく考えてしまうという流れも、そう珍しいものではないと、も想像できるわけでございます。
悲観がすぎると何もできなくなる、というのはちょっと間違いの部分がありまして、未来の危機に備えた行動が多くなるだけのことで、したいことができないのではなく、準備をしっかりとできるようになる、と、捉えた方が正確なのではなかろうかなと、予想するわけでございます。
ある意味楽観は常に付き纏うようなものでありますので、やや、悲観よりか、かなり悲観に立場をおいてみて、行動をした方が安全度が高いのではなかろうかなと、想像するわけでございまして、ええそれでも面倒臭いのでそうするのは嫌であるという気持ちが湧き上がるのもまた自然な流れではあるわけでございますが、後悔はするのであろうかなという、流れが見えそうではございます。
あの時にこうしておけばよかったという思いを抱かない方は結構少ないのではなかろうかなという予想はございますので、普通のことではなかろうかなという予想がございます、つまりは、綺麗さっぱりと諦めることが精神衛生上肝要であるということになるのでございましょうかね、と、無責任ではございますが、大体のことは、責任の取りようがないという話でもあるかもしれず。
責任を取ったふりと申しますか、そのような態度を取ることはできるわけでございますが、やってしまったことは取り返しがつかないわけでございまして、真にそれをどうにかしようとするならば、その時点まで時間を巻き戻して正しい選択をし直すしかないわけでございます。
金銭的な賠償やら、物理的なそれは、結局のところ代替であり、それそのものを取り直す、不利益を無かったことにする、ことはできないわけであり、つまるところ、そのようなごまかしをすることが責任をとるという意味合いになっているのであろうかなと、では、それは全く意味がないのかというとそれも違いまして、感情的に納得させることができる、こともありますし、当面の危機やら不具合のある環境を改善させることができます。
なので、責任を取るとか、これは言葉が一人歩きをしている面があるのであろうかなと、間違いであることを認めて、そのことで困ったことがある状態を改善する、くらいの意味合いで使用するべきであり、むしろ感情とは切り離したところにおいた方が、効率が良いのではなかろうかな、とか予想するわけでございます。
それはそれとして、感情を納得させる必要が当面あるという話でもありますので、そこは、謝罪やら、誠意を示すやら、ある意味茶番であるような、演出をするようにするのであろうかなと予想するわけでございます、いやまあ、真に後悔して、悔いていることもあるでありましょうが、それを効果的に見せることが大事になる時点で、ごまかしのうちなのであろうかなと、悪いことではありませんが、かなり幼稚であるのでは、とか、この辺りの情動をなくしていかなければ、進化とは言えない、とか、そのような意見もありそうではございます。
おいおい感情に流されないで、未来を予測して、現状の不利益を容認して、冷静に科学的に行動する人格が過半数を超えるような社会に、なるのではなかろうかな、と、楽観的に予想くして、おしまいです。
「人は愚かだから神様を必要とするのです」
「感情を抑制した結果楽しみがなくなる場合もありますので難しいですね」
「愚かな人が作り出した神様は、果たして賢いのでしょうか”旦那様”
また別の娯楽を生み出しそうではありますが”奥様”」




