2002_タイでエビを釣る、大きなエビでやんす。
目的をもって動くならば、何か成果を得ようとするならば、その行動の根拠を用意しておかなければならないのではなかろうかという話は、常識の範囲ではなかろうかな、いやまあ、それがただ単なる感覚やら、それこそ勘であるということもあるのでありますが、一概にそのような雰囲気での衝動も馬鹿にできるものではなく、ようは、明確に言語化できないけれども経験が導き出した根拠ということであり、なんとなく、はそれほど悪くないのではなかろうかなとかぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
手が勝手に動くということもあるのではなかろうかなとは思うわけでございますが、もう少し後のことを考えて行動してほしい気はします、幼児には高度でありましょうか?今日も元気かわいいですな。
攻撃する側、否定する側、非難する側が、される側に、そうでない証拠を示せということはこれは無理筋ではあるけれども、大声を上げることで、印象を操作できるということが大事なのであろうかなとか、みっもないと見るべきか、なりふり構わない必死さを称賛するべきかは、意見の分かれるところではございますが。
それがないことを証明することはかなり難しいという話ではありまして、なので逆をつくわけでございます、本来は、あることを一つ一つ論って、隙をなくしていくやり口が常道であり、正道であり、着実で、確実である、のではなかろうかな、いやまあ、それをするには時間が足りないので、どうにかこうにかして工夫をしていくわけでございますが。
仮にそれがあったと仮定して、ではどうなるのか、と、逆にそれを否定する方向へ向かうような論調になる場合もあるわけでございまして、数学とかではよく使われる手法ではなかろうかなとか予想するわけでございますが、その辺り、論理的な議論というものからかけ離れてしまうことが意図的にされるわけでありまして。
論点をずらしていき、大事なことは、とにかく相手の評判を落とす、信用に足りないのではないかという評価をつけることであり、実はそれそのものがどのくらい大きな影響を与えるのかということは関係ないのであろうかなという予想もできるわけであり、ただ、小さな不具合でも、放置しておくと、だんだんと大きな変異に発展することもあるのではなかろうかという予想もございますので、この辺りは塩梅が難しいのであろうかな、と。
敵対する団体やら個人やら、利益的にぶつかる集団同士の意見やら非難やら、評価は、差し引いて考える必要があるのではなかろうかという発想はそれほど珍しいものではなく、さらに言えるのは、劣勢である弱小である、陣営が、それしか攻めるところがないのであるか、と客観的に見えた場合、考慮に値しないくらいの、意見もありそうではあるわけでございまして、そのような評価を正確に下せるくらいには、学習を深めた方が良いのではなかろうか、こう、民主主義的な社会を構成するためには、などとぼんやり想像するわけでございます。
声を荒げるのではなく、粛々と、淡々と法律やら手続きやらに則って、証拠を集めて、慌てず騒がず着実に、不正を正していくというやり口が、常道であり、正道であり、結果的に一番早いまでがある、という話ではあるかなとか、その通りにはいかないこともあるとは思われますが、基本、陣地を塗り尽くしていき、こちらの色に染めていき、ある程度の影響力を行使できるようにすることが肝要なのであろうかな、全滅させることが無理であるのであるならば。
そもそも多様性を掲げるならば、敵対するものを全て塗り尽くすようなことは、本来よろしくないわけであり、むしろ、そうならないように行動するべきであり、社会構造もまたそれを後押しするべきではなかろうかな、とか、予想するわけでありますが、明確に法律に違反している、社会悪であるとされるものにも、その存在の余地を残すべきであるのでは、とう発想は、多少の危うさはあるものの、一定の理解は得られそうではあるか、などと連想するわけでございます。
それは現環境では悪であり、因習であり、汚れである、のではありますが、未来においてそうとは限らない、という話であり、ある意味、悪意やら、邪気やらは、一定の数、保護しておかなければ、概念の死を迎えてしまい、再発見された時に、致命的に手遅れになりかねないのではなかろうか、という発想もできるわけであります、がまあ、浜の真砂が尽きることはあっても、それが無くなることはなさそうであるので、杞憂ではあるかなとか、ぼんやり連想しつつおしまいです。
「実現しないからこそ神の国には価値があるという話でもありますね」
「全ての悪意が消し去られた世界というのは、まあ歪みそうではありますね」
「成ったと思った瞬間が堕落の始まりとはいいそうですな”旦那様”
生物としての本能がなくなりそうではありますな”奥様”」




