1989_すしずめ、将棋倒し、階段落ち、百物語。
特定の商品に否定的な印象を与えるような表現は避けるようにしようという風潮があるようでございます、伝統的な文章ではどうなるのでしょうかね、やはり遡って修正してしまいたいという欲求が生まれるのでしょうか、価値観が確かに違っていたのであるという証拠を消しかねないので、悪い手ではなかろうかなとか、予想するわけでございますが、知らなければそれをやらないのではないかという淡い希望もあったりするのであろうかなとか、いやどうなのでしょうかね、知っていれば避けられるということもありますので、事と次第によるのであろうかなとか、ぼんやりと、連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
おしくらまんじゅう、は、良い言葉なんでしょうかね?暖かくというか暑くなってきませんか?今日も元気可愛いですな。
隠語として使われてしまう元の商品やら物品やら現象やら行事やらの立ち位置をどうしてくれようという話はあるのではなかろうかなとか、また、婉曲な表現をそのまま捉えてしまって使用してしまうような流れもまたありそうではあるかなとか、この辺りは教養の範囲ということになるのであろうか、では、やはりそれらは必要なものなのであろうかとか、いや、対人関係の範囲次第では知らなくても良いから、知らない方が良いという類のものでもあるのではなかろうかなとか。
知っていることで損をすることはあまりないのではなかろうかという意見は以外と楽観論なのではなかろうかなとか、つまるところ知ってしまったが故に苦悩するという事象はまあ、それなりにありそうではあり、しかも知ってはいるけれどもこちらからはどうしようもないようなものになると、その苦悩を解消する手段すらなう、ただただ精神的な苦痛が積み重なるだけであるという、悲惨なことになりかねないわけであり。
であるから、忘れるという行為が必要不可欠になるのであろうかなとか、思い出さないようにするでもそれほどの違いはないのかも知れないわけでありますが、これに関しても本当に忘れてしまう方が良いのか、放置しておくとのちに致命的な不具合を発生させるのではなかろうかという心配というものがありそうではあり、塩梅が難しいのではなかろうかとか、予想できるわけであり。
今はどうしようもないけれども、徐々にどうにかなるのではなかろうかという希望を持つことも誤魔化しとしては良いものではなかろうかなとか、遠い未来では解決しているに違いない、現状はこれ以上ひどくならないように対処していこうみたいな、平穏を欲する行動をしてしまうような感じであるかなとか、もしくは目を逸らしてしまう、みてみぬふりをするような行為に走るのではなかろうかなと予想するわけでありまして。
これはそれほど悪い行為ではないのではなかろうかなとか、少なくとも思い悩む時間を他の有意義なことに使用できるという点では、かなり有益ではなかろうかと、思考するわけでございまして、悩んでいる間にできることがありますね、という話になるわけではありますが、その行動がさらに事態を悪化させることもあり、やはり悩まないまでも思考は続けていく、考察し予想し観察し手を加える必要は常にあるのではなかろうかなとか想像するわけでございます。
でありますが、それには適度な熱量が必要であり、それを得るための活動もまた必要となり、余剰分で改善していくことになる方が健全ではなかろうかなとか、身を粉にして働いても自分が倒れてしまっては意味がないのではという発想は、それほど不健全ではないはずなのではなかろうかと、滅私奉公は流行らないという感覚は、あまり古いものではないのではないかなと、想像するわけでございます。
熱に浮かされるようにして行動する、自分で考えているつもりで実は流されているだけであるという場合もありますが、往々にして流れに乗った方が事態が良くなることもあり一概にそうすることが悪いことであるとは言えず、むしろ無意識に行動した方が、いつの間にか世界が変革しているという結果を引き寄せることもあり、なかなかに難しいものがあるのではなかろうか、と予想できるわけであります。
ただ、本能に任せて突き進むことが全肯定されるかというと、これもまた否定される案件でありまして、この辺り均衡を保つことが大事なのではなかろうか、いやさ、本能や感情を配して自らの選択を極めていくべきではなかろうかという、意見が出てきていると観察されるわけではありますが、結局のところ、時と場合によるとしか言いようがないところに、面白さが感じでみるわけであり、笑うのであります。おしまいです。
「矛盾を飲み込むことで神様を作るのですよね」
「心理学も経済学も過去に向かってしか進まない学問ではありますね」
「気の持ちようと言って仕舞えば身も蓋もないですな”旦那様”
それも同じものを見ているとは言えないとか、楽しそうですな”奥様”」




