1983_木曜日が12日、明日の準備、ロッジキャンプ。
緩い感じの野外宿泊というのは、自然を舐めているのではなかろうかという感想も出てきそうではありますが、気軽に環境を克服できるというのは、人類側の勝利とも言えるのではなかろうかとか、驕りであるかと言われると、奢られたいと答えるが如し、みたいな言葉遊びも出てきそうな気がする今日この頃、いつもの無駄話です、ゴブリンがお届けします。不在でしたので再配達ですかそうですか。
お外に泊まりたいという欲求は冒険心溢れるお子様には刺さるものがあるのであろうかなとか、湧き上がる気持ちを宥めつつ、お家で外ご飯を作ります。今日も元気可愛いですな。
自然というか環境は克服するものであるとか、上手に付き合うものであるとか、利用するものであるとか、根底に命を守るという本能のようなものがあるのであろうかな、と思うわけではありますが、目の前の脅威に対処してしまったら、さらに大きな災いを呼び込むことになってしまった、はありそうな話でありまして。
利便さを追求するあまり環境を破壊してしまって、不利益を被るということはままあることでありまして、怖いことにその因果関係が長くわからなかったが故に、取り戻せないほどの悪影響を与えてしまったという結果が、のちにわかるという悲劇もあったりするわけであり、まあ、これは笑えないか、笑うしかないのではなかろうかな、という事例もそれほど珍しくなく。
とても便利であるからこうしましょう、それを使いましょう、お得でありますよ、と、一斉にそれを皆がやり始めることの危険性は、これはまあ、当然あるわけでございますし、十分に観察できてきたものではありますので、ある意味、流行というものは環境破壊と切っても切れない中であるという話にはなりそうでありまして。
ただ、同じものをたくさん作れば良いということは、これはこれで資源の節約というものにつながることもあり、程度問題ではあるのかなとか、逆に資源消費の一点集中を招いて、界の均衡を見出してしまって、色々と歪ませてしまうこともまたありそうではあり、またしても難しいわけであり。
欲しい人がいるから作るのであるとかいう以前に、欲しがらせようとする意気込みというか策略というか戦略というか、商売上の作戦があるのであろうかなとか、そうすることで儲けるようにしようという流れができているのであろうかなとは予想できるわけであり、そこに長期的な資源確保の戦略が絡まなければ、社会的な傷が生まれてしまう、可能性が高いのであろうかなとか。
資源を取り尽くしてしまうというか、そもそも有限であるからして、いつかは無くなってしまうのであるのであるなら、その速さを加速させてしまうわけであり、過度な広告はこれは控えた方が良いのではなかろうかとか、いや、そうではなく、資源保護の観点からの周知徹底を増やすべきではなかろうかとかいう反論もできるわけでありまして。
何かを作るということ自体に忌避感を抱いていしまっている層はありそうでありまして、自然のものを消費することに対して、嫌悪感があると言いますか、それは破壊であり、破滅的な行為であるとかなんとか、適度に自然に手を入れて維持管理することすら嫌うとなると、まあ、害悪でしかないわけであり、その辺りの知識不足を放置してきた行政側の怠慢ではなかろうかという話にもなるわけでありまして。
どこを回ってきても最後には教育の話に戻ってくるのではなかろうかなとか、全体が賢くなれば争いは減るのではなかろうかとか、少なくとも知識不足による余計な手間は少なくなるのではないかなとか、中途半端な知識でさらに混乱が発生する可能性はそれほど低くはないわけではありますが、であるならば、十分なそれを与えることは、社会維持の必須条件であるのではなかろうかとか。
人の話をきちんと聞く、意味を噛み砕いて理解する、情報として蓄えて応用することができるようにするには、これはまあ、実のところかなり幼少からの学習が必要なのではなかろうかなとか、そこがまあ弱いのであろうなぁとか。初期投資を怠ってしまっているので、後で辻褄を合わせるのに苦労しているような感覚であり、それほど間違ってはいないけれども、慣習でなかなか変化しないところ、と、言ったところでしょうか?少しずつ変わっていくと良いですね、と、感想を述べた所でおしまいです。
「特定の宗教色を絡めないけど神様的なものを示唆する道徳は必要なのでは?」
「ロジカルに道徳と倫理を学習させるべきではないかな」
「神様が見ていると思って行動しなさい、ですな”旦那様”
そのほうが向く生徒も多そうではありますな”奥様”」




