1977_はやぶさくん、にごうさん、力。
一号は技で二号は力なのであるという話をうっすらと聞いたことがあるようなないような、ひと昔前は、長いお話が多かったので、それに伴ういざこざも多かったのであろうかなとか、一つのお話を長く続けることと、次から次へと違うお話が繰り出されることと、どちらが好まれるのであろうかなとか、読み返せば良いのではないかなとか、ぼんやり想像しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
同じお話をなん度もなん度も読み返したくなるのは、やはり忘れているからでしょうか、それとも、安心するからでしょうか。今日も元気可愛いですね。
今までの作品を読み尽くすには既に時間が足りないことが決定しているわけであり、であるならば、もう新しいものはいらないのではなかろうかという、意見が出てきそうではありますが、創作畑ではやはり今でも耕されて種をまいて育てて手入れをして収穫するような循環というか流れが止まることを知らないわけでありまして。
やはり環境に左右される面白さがあるということであり、時流に沿ったというか、流行りの物語を読んでみたいという欲求があるのであろうかなとか、古典的な文学作品とか娯楽作品はその時代背景を知らなければ十分に楽しむことができない、もしくはできないのではという不安があるからして、伸びる手が止まるとかになるのであろうかとか。
では新作だけを読書視聴し続ければよろしいのであるのかとか、それが効率が良いのかというかこれまた違うような意見も多く、いわく、これを視聴する、読書するのであるならば、先にこれを読んでおく視聴しておくべきであるという、基礎知識的な何がしが必要になるという、話であり、まあ、大体において余計な御世話であると言われる行為ではあるのではなかろうかなとか。
事前の知識無しで感じた方が良いものもあれば、しっかりと前後の流れやらそれが制作された時代の背景とか社会とか環境を知ってからみる方が良いものがあったりとか、そもそも文章が映像化されたものであるならば、先に元になっている本を読む方が良かったり、そうでもなかったり、同じように漫画もそうであったりするわけであり、この辺り、時と場合と視聴者の背景とか歴史によって、千差万別のやり口が存在するのであろうなぁとか、感嘆したりもするわけであり。
感動できたことを貴重な体験であったと素直に喜べるような環境づくりが必要になるのかもしれないとか、心持ちの問題であるのかと言われると、そうかもしれないと答えることになるわけでございますが、精神論ではなく、学習の度合いとか深度とか、方向性の話である可能性もありそうであり、ひねくれる必要もあったりするかもしれず、素直にねじ曲がった方が面白いことになる、場合もあるのではなかろうかなとか。
何が後に響くかわからないものであり、作者製作者の意図しないところで感じ入る方もそれはそれで多いのではなかろうかなとか、みた人がその価値を決めればよいは逃げではなく、どうしようもないことであり、大切なものであり、当たり前の話ではあるのであろうかなとか、おそらくはその感動は、言語化しても良いししなくても良いですが、おおよそ他人に話すものではないというところは、確かではなかろうかなとか。
会話の道具に感動を使用してしまうと、純粋さが薄れてしまう消えてしまうという場合は確かにあるのかもしれないという話であり、つまるところ感動は感動であるからこそ素晴らしいのであり、それを何かに利用しようとすると、その感動が薄れてしまう、衝撃が弱まってしまう、これが勿体無いので、口にしない、けれども、伝えたいとも思うわけであり、これはまあ、優しさのようなものではあるのかなとか。
素晴らし体験を広めてみたいという欲求であるのかなとか、近しい人に幸せのお裾分けをしてみたいという、善意からの行動に近いものがあるのではあるけれども、ある面ではそれはとても汚く見えるようなものでもあり、ただ、その汚さが美しいということでもあるのかもしれないとか、この辺りはまあ、言葉遊びであるのであろうかなとか。
ただそれが好きである、琴線に触れたのですとか、素直に作者製作者に語ることは伝えることは、結構良い結果を生む可能性はあるかなとか、そもそもそれを求めていない方もいるわけでありますが、もしかすると、同じような、もしくは想像もしなかった何かがまた生まれて、心が動かされる情動が大きくなるような何かが、みられるかもしれないわけであり、そうでもないかもしれないわけであり、まあ運ですよね、身も蓋もない言葉が出たあたりで、おしまいす。
「神様を見つけた人はかなり感動したのでしょうね」
「自ら辿り着くほど、楽しいことはないのではないでしょうかね?」
「一生懸命楽しく設定を盛り込んだんじゃないですかね?”旦那様”
隠れた名店理論ですかね?”奥様”」




