1973_金と、ときん、どきん、とくん、とーくん。
駒とするなら何が良いかとなると、歩兵となるのではなかろうかなとか、これがないと勝負にならないというお話も有名でございますし、敵陣にて金将と成るのは、立身出世的に宜しかろうと、使い捨てにされることも多いわけではございますが、そうであるからこそ使いやすいのであろうかなとか、いやまあ、敵に取られても再利用できるというか、取ってからが本番とか、結構いい位置に居る存在ではなかろうかなとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
動物将棋くらいならできるようになってきましたかね?いや、それに四間飛車はないですよ?矢倉もできません、詳しいですね。今日も元気可愛いですな。
駒の取り合いというか、陣をひいて敵将をとるような遊びは結構歴史がございまして、おそらくは、何かを見立てるという発想が生まれた時点で登場したのではなかろうかなとか、最初の駒はやはり石ころとかであったのでありましょうかね、ある程度重さもあって、動かしやすいという。
それ以前だと絵でありましょうかね?こう、がりがりと、地面に何かの枝で持って線を引いて、狩の作戦を立てていたものの延長であるとかないとか、そのまま小枝とかを利用して、動きを確認するあたりから始まったのでありましょうか、次の発明としてはその駒を置く場所でありましょうかね、升目の発見というか応用ではなかろうかとか。
盤面を作り出してから、行列とか、象限とかの話に移るまでかなりの時を必要としたという感覚でありますから、具体的ではあったけれども抽象的な、数字やら数学への移行は遅かったのであろうかなとか、定石やら組み合わせやらの発達は逆に早かったのであろうかなとか経験則であったのではなかろうかなとか。
升目の交点を利用するのかその囲まれた中を利用するのかで、遊戯の質もまた変わってきたのであろうかなとか、いやまあ、現実を模しているのであるなら、同じ位置に複数の駒を置きたくなるのであるからして、そうであるなら、中に、空間があるところに置くようになるのであろうかなとか。
同じところに置くと相手に取られてしまうとか、自分の駒は同じ位置にはいけないとか、そういう発想も生まれたのであろうかなとか、軍隊とかの発想であるならば、同じ位置に駒を合わせると数というか、戦力が増えるとかしても良いのではなかろうかなとか、いやそれでは現実的ではなく、増えた分占有する土地というか升目も大きくなるのではなかろうかとか、兵科としては別扱いなのではなかろうかとか。
現実に沿ってややこしく複雑になっていった可能性があるかなとか、そしてあまりにも細かく分かれすぎたので、遊戯としてはどうなのであろうかという話から、簡単なものに変化して行ったのではなかろうかなとか、あるいは伝わっていくうちに削ぎ落とされたのではなかろうかなとか。
駒の再利用をするか否かはどのあたりで分かれたのであろうかなとか、捕虜の概念が消えたのか、もしくは勘弁なものにするためであったのか、どうかとか、どうなのであろうかなとか、色々と考えてしまうわけでございますが、単純に駒の形が問題であったのであろうかなとか、こう、向きで敵味方がわからなければ、駒の再利用は難しく、さらにいうならば、裏表が利用できなければ、成り上がりも表現できないとかなんとか。
芸術性が遊戯性を殺してしまった可能性はあるのであろうかなとか、逆に、駒構造を複雑に仕掛けを多くすれば、多様な変化を楽しめるのではなかろうかなとか、合体したり変形したり、分離したり、もしくは自由自在に不規則に動いてしまったりするような、駒を利用した遊戯とか、新鮮ではあるのではなかろうかなとか、面白いかどうかは、また別の問題ではあるのであろうかな、は確かな話であり。
勝敗が決まらないことが大切な対局とかもありそうではあったり、延々と続けられるというかどこかでの均衡点を設定することが双方の勝利条件であるとかなんとか、妥協点を探る遊戯とかであるならば、かなり現実に即したものになりそうではあるかなとか、いやまあ、爽快感とかは、単純さはなくなりそうではありますが、ある意味協力的な展開になるので、双方が勝者になるという、優しいものにはなりそうではありますね、芸術点を競うようになるのかな?などと妄想を連想しつつおしまいです。
「神が盤上で遊戯しているかの如く、という話もありますね」
「単純と複雑のバランスを取るのが大切なんですよね」
「サイコロを振らないとも言いますな”旦那様”
遊ぶ人の前提条件も問題にはなりますな”奥様”」




