1964_こむどっと混む、千客万来、雷親父にぶー。
千脚万雷とか表記してしまうと必殺技っぽいような気がします、そういえば、武器言語とか武闘言語とか、まだどこかにあるのでありましょうか?別に調べて欲しいわけではありません、無駄話の種でございますが故に、格好良い技名とかはどうやって作り上げていくのでありましょうかというと、そもそも格好良さを求める態度が格好悪いのではなかろうかという矛盾にたどり着いたりしたりして、世の中わままならねえな、八つあん、とか誰でしょうこれはとか、なんとか、な、ゴブリンが、今日をお送りします。
こう、必殺技の真似事をしてみて、自爆していくところを見ると、危ないということを知らせることは必要なのであるなとか、思うわけです。泣かない泣かない。今日も元気可愛いですな。
名前をつける感性が良いのか悪いのか、とかを見極めるところはどこであるのであろうかなとか、端的にそのものを表して、覚えやすく、かつ、ある程度独創性があるとかなんとかであるのであろうかなとか、いやまあ、あえて長々と名称をつけて、ややこしくして印象に残すようなやり口もありそうではございますが。
寿限無寿限無ではありませんが、長い名前というものには一定の需要があるのではなかろうかなとか、暗記できるとえらい、みたいな。知識の優位差をとってみようという試みではなかろうかなとか、いやまあ、覚えておけるだけの知能があるとか練習の結果を見せつけるとか、ある意味そのまま自己顕示欲なのであろうかなとかなんとか。
語彙のおおさを競うような話ではなかろうかなとか、即興で拍子に合わせて言葉をぶつけ合うような闘い、韻を踏んでいくようなあれですが、それはまあ、知的な格闘技とか言えるのではなかろうかなとか、聞いていて心地よいようなものである可能性が高いのではなかろうかなとか、いや落ち着かないという意見もまた正しいのであろうかなとか、なんとか色々と思考が滑るわけでございますが。
語句の選択と申しますか、使用言語を多様化させたそれは結構、難しいというよりは、演者の腕というよりは、周囲で評価する方に努力を必要とさせるわけであり、かなり高度な内容になるのではなかろうかなとか、そこを突き詰めていく文学なり絵画なり音楽なりが、一定の需要と申しますか、知性を表す指標になっていくのであろうかなとか。
数字で表せるようなものでないので、たとえとか、それを示すための物差しとしての芸術があるという表現をしてしまうとそれはそれで純粋ではないのではなかろうかとか、そのものを感じて楽しむことが大切なのではなかろうか本質とは何かとか、逆にまた深みにはまるような感じになりそうではありまして、考えるな感じるんだということを素直にできる人格はそれだけで才能なのであろうかなとか。
ただ、これはできるときとできない時があるということにし必ず、天才はどこにでもいるのであるけれども、その瞬間を捉えることができにくいだけであるのではなかろうかなとか、偶然でしかないのであろうかとか運命というか、運の絡む要素が大きいのであろうかなとか、なので、運がないというのは、これはまあ、普通のことであるのであろうかなとは、慰めてみるわけであり。
才能がないということはそれほど珍しいものではなく、そもそもそれもかなりの運の要素が左右しているわけであり、発露する場面が訪れないままに、もしくは向かって行ってもずれることがままあるわけであり、期待することが無駄とまでは言いませんが、落ち込むほどではないかなとか、よくあることではあるかなとか、脳裏に留めておけば結構安全であるのではなかろうかとか。
二匹目のどじょうは狙わなければ採れないわけでございまして、兎が転がる木の根っこも自分で増やしたり、さらには、積極的に罠にかけたりすば良い話でありまして、そしてそこまで動いたとしても成果が得られるかどうかは、まあ、別の話になるわけでございます、その環境を整えることを楽しめばよいのではなかろうかなとか、ぼんやり想像するわけでございまして。
格好良い名前とか姿かたちとか、仕草とか、考えている間が楽しいのであるならば、それはそれで価値があるということではなかろうかなとか、評価とかは二の次なのであるとか開き直ってしまった方が、色々と楽しめるのではなかろうかとか、やはりぼんやり想像するわけでございまして、いやまあ、無責任ではありますが、とどのつまり誰にも責任は取れないわけでありますから、それの何が悪い?とか唆してみておしまいです。
「神様に責任を転嫁すると楽になれますよ?」
「現象をそのまま名前にして続けていくと、自然に格好良くなることもあります」
「それが宗教の役目ではありますな”旦那様”
ありますな、こう、発音したくなる科学言語ですな”奥様”」




