1963_河岸を変える、替え歌の蛙、飛び込む。
古い系や、買わず売り抜く銭の音、なんの状況を歌ったのでしょうかね?短歌や俳句や狂歌か標語や、特定の音数を組み合わせて遊ぶ文化があったような気がしますが、韻を踏まなければならないとか季語を入れなければならないとか正直どうでも良いのではなかろうかという自由詩を作り出したりもするわけでございまして、まあ、好きにすればよろしいのではなかろうかなとか、好みは人それぞれであろうかなとか、ぼんやり連想しながら始まる今日のゴブリンでございます。
それでも拍子の良い言葉のつながりというものはあるのであるかなとか、いやまあ、子供が好きそうなのはそれであるのかとか、破裂音とか好きですよね。今日も元気可愛いですね。
心地よい音の響きというものは万人に共通しているのであるかなとかなんとか、数の組み合わせ高低、周波数とかなんとか、文化的背景があるので意味がない方が純粋に比較検討が可能になるのではなかろうかなとか、人の声帯で発音できないようなそれにしてしまうと、さらに客観性が増すのではなかろうかとか。
楽器の音階を声で表すことができないのであるならば、それは発音できない音になるのであろうかなとか、意外と近場であるのではなかろうかとか、想像するわけでございますが、同時に電子音とかでそのものを耳にすることは増えてはいるのであろうかなとか、あれは自然な音ではないのではありますが、全てが全て不快であるということもなさそうではありまして。
であるならば、自然な音が耳障りのよく好まれるものであるという根拠が崩れていくのであろうかなとか、音の質ではなくつながりであるのであろうかとか、いやまあ、危険を連想されるようなものはやはり不快であるのではなかろうかとか、黒板を爪で引っ掻くような音とかは万人に嫌われるものであるとか?ただそろそろ、黒板が見られなくなっているような世相ではあるわけでございまして。
単純ではないのであろうなぁとか、声ひとつとしてもその質と、音の連なりにはかなりの組み合わせがあるわけであり、同時に震わせる空気もまた違いがあるのであろうかなとか、再現が難しいというか、ほぼ無理という状況もあるのではなかろうかとか、そもそも聞く方の調子もあるのであるならば、一期一会と言っても良いのかもしれないとか、ぼんやり想像するわけでございまして。
できうる限り平均と言いますか、再現性が可能な音の連なりを探し出すことが安全であるのであろうかなとか、逆にその瞬間にだけ最高の潜在力を発揮するような、状況を選ぶ音を作る方が良いのであろうかなとか、そもそもそれは計算して作れるようなものであるのであろうかなとか、色々と悩ましいものがあるのであろうかなとか、想像するわけでございまして、その道の極めるような人とか技術者の腕がまだまだ活かされる分野であるのであろうなぁと、連想するわけでございます。
そこに意味のある語句が乗るわけでございますので、音だけでは完結しない分野ではあるのではなかろうかなとか、必ず誤解される文章ではありますし、意味は通じないけれども感動はするというような不可思議な現象が発生してしまうわけでございますが、別にそれは珍しいことではなく、むしろ自然な流れであり、あえて意味を不明瞭にする必要はないのではなかろうかとか、そのままを歌えとか言われてしまいそうな、大御所が幻視されるわけでございます。
直接的な表現が素晴らしいということもありますし、間接的と申しますか婉曲的と申しますか、比喩を多投するやり口が素晴らしいという方もおられますし、この辺りは、色々なものを用意しておくことによって、聞き手に選ばせる、選ぶ楽しみを与えるのがよろしいのではなかろうかなとか、誰かにとっての快楽が誰かにとっての苦痛になることは、これまた普通のことであるわけでございまして、この辺り、棲み分けが必要になるということは、また、大切な別の視点ではあるのかなとか。
急激な変化が嫌いであるとか、逆にそれが感情を揺さぶるのであるとか、好みが結構別れるのであろうかなとか、ただそもそも、聞こえない方もおられるわけでございまして、そうなると、それように、他の感覚を襲うような音楽というか、拍子が必要になるのではなかろうかなとか、色々と連想が発散していきましたところで、おしまいです。
「宗教と音楽は相性が良いのですよ」
「音の研究は、結構人気のテーマですよね」
「歌うお坊さんとかシスターとか、有名ですよね”旦那様”
心理学とか社会学とかとも絡んできて楽しそうです”奥様”」




