1951_ぞうを撫でる、真っ暗、よしよし。
その撫でているものは本当にあなたの想像しているようなものなのでしょうか、とか疑問をていしれば、ちょっとした恐怖文章になるのではなかろうかなとか、視覚情報に頼っている割にはそれをあまり信用していないというか、最上位に上げていないような言い回しが多いのは、見えることが当たり前であるという認識が強いからであろうからかなとか、強調として見えないものが挙げられるのであるかなとかなんとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
見えないものを大事にしているというか、それそのものを見ているような気がするわけでございますが、想像上のそれであるかどうかを証明する手段が意外と少ないような気がしますね。今日も元気可愛いですね。
目に見えないものが大事とか、見えないところが重要とか、それはまあ、言って仕舞えば逆張りと言いますか、常識を疑わせることによって発生する気づきというか驚きというか、ひっかけとか誤魔化しであって、実のところ、見えているところも大事と言いますか、そこを蔑ろにして良いものではないという話でもあり、要は、商売の種なのであろうかなとか。
見た目がしっかりしていても内部が悪くなっているということはそれほど珍しいものではなく、であるならば、殊更に強調しなくとも良いのではなかろうかなという、意見もございますが、それでも容易に見た目に騙されることがあるので、見えているものだけを信じてはいけませんとかその手の意見が幅を利かせるのであろうかなとか。
ただ、見えているものを否定するものではなく、それはまごうことなきそのままである場合も多いわけであり、誤魔化しのために、使われる言葉でもあるのであろうかなとか、それと、見えているところの綺麗化は、時間をかければできることが多いわけであり、そこに資源をかけないのは、余裕がないとか、他人を気にしていないとか、その手の性格が見えるだけの話であり、十分に評価の対象になる、場合があるのではなかろうかなとか。
対人関係にあまり資源を使いたくないと申しますか、必要を感じていないのであるならば、これはまあ、中身さえしっかりしていれば良いということになるのかもしれませんが、往々にしてそこを切ることが難しいがゆえに、疎かにすると、さらにのちに資源が浪費されることになりますので、気をつけなければならなくなるのであろうかなとか。
今使うのか、後で使うのか、どこでその資源を消費するのかの違いであり、どの瞬間にどれだけ使えば、結局全体的に効率化が図れるのか、を、色々と試しながらやって位みるしかないのであろうかなとか、その手の資源消費は、環境やら条件やらでかなり変化してくるわけでございますし、一概にこうすることが良いという言い切りはできない部類のものであることは確かではなかろうか、と予想できるわけでありますし。
ただそれにしたとしても未来を精度の高い状態で読むことは難しく、できるだけ、どのようになっても対応できるように余裕を残しておくことが肝要ではなかろうかなという話にはなるわけでございまして、在庫を抱えることは資源を消費し続けることになるけれども、未来への投資と考えると、それほど無駄ではないのではなかろうかという発想にもなりそうではあり、ただ、作りすぎることもまた、無駄になるわけであるからして、その辺りの見極めがかなり難しく、運の要素が絡んでくるのであろうかなとか。
物理的な在庫を最小限にしてしまうことが肝要であるのではなかろうかなとか、しかし作り続けなければ廃れてしまうものもあるという話もありますし、それ以前に保存が効かないものであるならば、これは一定数作り続ける必要があり、どのようになっても余裕があるように余剰生産をすることは、これは自然な流れになるわけでございまして、この辺り、見極めが職人技になるのか、はたまた、計算でどうにかなってしまう分野であるのか、気になるところではございます。
入力情報が多岐に渡りすぎているという話もありそうではあり、まずはそこを絞るか、膨大なそれを処理することのできるそれも時間に間に合うようにできる構造を構築する必要があるということではなかろうかなとか、量子的な揺らぎを利用できるようになるとそれが可能になるのかという若干の未来への希望がみられる昨今であるかなとか、取り止めもないことを思考しつつ、おしまいです。
「神様は見えないけれどもそこにあるとして扱うことが多いですね」
「すべての情報を正しい位置に置けばよいとか簡単には言えるのですが」
「そこになければないですね、と発言する宗教家とか面白そうです”旦那様”
エラリー・クイーンですか、私も好きですよ”奥様”」




