1946_まるかつというと豚カツ屋さん、学生。
若い人に人生の楽しみ方を教える大人という構図はやはり、押し付けがましいところがあるのではなかろうかなとか、いやまあ、親切ではあるようには観察できるのではありますが、余計な御世話であるとみられる場合も多そうではあり、しかしここでこの台詞を言わせてみたいとか言いたいとかは、虎視眈々と狙っているような可愛らしさもみられるわけでございまして、安易に否定するものではないのではなかろうかなとかぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
子供への躾が洗脳になっていないかどうか、価値の押し付けになっていないかどうか、気になるところではありますが、まあ、どうやっても、大丈夫な気はしますな。今日も元気可愛いですな。
教育というものは基本洗脳であるわけでございまして、価値観の押し付けではあるわけでございます。社会的に有用であるようなやり口に得があるように見せかけて誤魔化しているという方にも捉えられますが、実際に共通認識を植え付けることによって余計な手間を省くという効力もあるわけで、一概に悪いものであるとは言えないわけであり、そもそも善悪の判断が絶対的に為せるものでもないわけでございまして。
常常繰り返し申しております通り、価値観やらその手の評価やらは、時と場合、歴史の流れやらその場その場の環境によって変化するものであり、絶対的なものではないわけでございますれば、その都度、これが良いのではなかろうかと各人格が判断を瞬時に積んでいくしかないわけでございまして。
ある程度場面を想定してあらかじめ応えを用意しておくことは可能ではあるけれども、それにこだわりすぎると、さらに効率の良い、正解に近い、行動、言動を取りこぼすことになりかねないわけであり、ここには技術が必要になり、また、思考の瞬発力と申しますか、時計の速さが必要になる、のではなかろうかなとか想像できるわけでございます。
基本凡人である方が多いわけでございまして、突発的な瞬発力とかなんとか爆発的な思考力とかが、まず存在しない人格で、これらに対処するためには、できるだけ、平凡な問題に落とし込んでおく、細かくわけて、最も間に合う遅さで対応できるように、あらかじめ予想やら準備やらを済ませておいて、誤魔化し誤魔化しやっていくしかないわけであり、さらにいうならば、まず失敗することを前提に用意しておくことが必須になるのであろうかなとか。
才能の溢れると言われる方々でさえ運が良くなければ大成しない流れであるわけでございますが故に、凡人であるところの人格が、成功するはずがないと、そのような発想のもとに準備を十分にしておくべきであり、部分的な成功を狙っていけるような構造に、しておくべきなのであろうかなとか、広く浅く、手を打っておく必要があるとかではありそう、と観察できるわけでございます。
中途半端になるのでよろしくないのではというお話も出てくるわけでございますが、極論を申し上げれば、極めることは不可能ですので、ある意味どの分野でも中途半端になることは当たり前であり、それを無視して、一つのことに中力してしまうのは、思考の放棄であり、むしろ怠慢ではなかろうかという、言い方もできるわけでございます。
この辺りも、ものも言いようという分野ではありますので、信じるかどうかはあなた次第とか、言い放って、無責任に立ち回ることもできます。それこそ無責任な言動で道を誤ったらどうするんだという話ではありますが、最初から無責任であると明言しているのであるならば、問題はないのではなかろうか、とか。
では、諫言に意味はないのかというと、大体において、書いている以上の意味はなく、響くかどうかはそれこそ運次第であり、さらに、それが役に立つのもまた、運任せであるわけでございまして、傾聴せず、聞き流し、むしろ多数のそれに触れて、都合の良いものだけを抜き合わせてみたり、ふと、振り返ってみて、こうであったかとか、納得して、感動してみたり、この辺りは、まさに趣味的な流れであるのではなかろうかなとか。
とどのつまり、趣味に生きるしかないのではなかろうか、などと、いやそういうことであったかな、適当に言い放ってみて、おしまいです。
「ありがたい神様の言葉とかいうと、説得力が増しますね」
「理屈っぽい方が良い場合もありますね」
「胡散臭さが先に立つことも多そうですな”旦那様”
共感が欲しかっただけという場面も多そうですな”奥様”」




