1945_てんてんてんまるか、てん×6でまるか?
表現の基本というか、常識というか、作法みたいなものがあって、知らなくて間違えるのはあまりよろしくなくて、知っていて崩すのは良いとかなんとか、その辺りの間違え方にも作法があるのであるとか、いやまあ、そんなことは関係ありませんよという考えで気にせずに表現する人もあれば、かなり繊細に気にされて、注意して使用する方と、それぞれいるのであろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます、わたくしですか?気にしないというか、気にできない部類の生き物ですね。
子供は言葉を知らないから使い方が独特になるというか、つなぎ合わせてしまうので、それはそれで味があってよろしいような、わざとやると、鼻につくのはまあ、仕様でしょうか?今日も元気可愛いですね。
誤解されることが確実であるにしても最初から意味不明な文章を書くことは正しいと言えるのであろうかという話ではありますが、基本、時と場合によるのではなかろうかなとか、できるだけ、伝わってほしいと言いますか、伝わらなければまずい状態での文章書きは、これは共通認識を守って書くか、それがなくとも、迷いようがないように書くべきである、わけでございまして。
ただ、指示にするのであるならば、それが間違っていないかどうかを問うのではなく、その通りにすればどうなっているのかの状態を時系列に沿って表記するべきではあるかなとか、予想するわけでございます、写真や絵を添えるとなをよしではありますが、仕様が変化すると使いづらくなるということはありますので、小まめな更新が必要にはなるのであろうかなとか。
では芸術と呼ばれるような部類では型を知らない方が良いのかというとこれまた違うのではなかろうかという意見が多いようでございまして、全てを知っている必要はないけれども、確実に前述があるという意識で、つまりは、新しい発想はまずないという前提で話を進めた方が安全であるという、心持ちでありましょうか。
どこかにあるのであるならば、今ここでそれを作る必要はあるのであろうかという意見も、また正しいものではあるわけでございまして、認識の違いというものであるのであろうかなとか、欲しいものはその結果ではなく、過程であるという、感覚なのであろうかなとか、工作の楽しみに似ているわけであり。
買った方が効率が良い、安価である、ものを自らの手で作り出す、この行為が途切れない趣味となって、確立している、一定の層の後押しを受けているのは、その行為そのものが楽しいから、感情を揺さぶるからであり、であるならば、すでにそれが、それも程度の良いものが存在していることは、それを行うことへの障害にはなり得ない、わけでございまして。
なので、その作ったものを自慢するときには、その出来を誇るのではなく、まあ、誇っても良いかもしれませんが、あくまでも素人仕事としてはすごいであろう、という話程度にとどめてしまって、これだけ熱中して楽しかったですよという紹介、をすることを主題にするべきではなかろうかなとか、いやまあそもそも自己満足であるならば、自慢をしない方が良いまでありそうではありますが。
ただ、それでもこんなことをしましたよということを話す理由とか理屈としては、この面白さを他の人格にも知ってもらいたいという、楽しんでもらいたいという、善意に近い何かであるのであろうかなとか、くだらない争いなんかしないで、これをしようぜ、みたいな、ある意味、平和的な世界を作ろうとする試みとか行為とか、働きかけなのではなかろうかなとか。
昔の動画に、争いなんてくだらない、俺の歌を聞け、という台詞がございましたが、あそこまで行かないまでも、こんな楽しいことがあるのですよ、よければ試してみませんか、とかは、言いたいとか言いたくなるのであろうかなとか、予想するわけでございまして、ですので、未熟な作品をどうしてこう自慢しているのであろうという疑問には、そのように変換して捉えておいた方が、お互い幸せであるのではなかろうかなとか、いやまあ、誰のことであるのかという話でもあります、おしまいです。
「創る過程が楽しかったのですという神様はいそうですね」
「結果が出ることはおまけという感覚で研究も進めば良いですね」
「神様同士で争うよりは随分良いかと”旦那様”
自由にさせておいた方が良い人格はありますな”奥様”」




