1938_しょうがない、ジンジャー、ぶっかく。
神様がいないことは確からしいのであるのに、宗教が存続しているのはなぜなのであろうか、と言う疑問を抱く方も結構おられるのではなかろうかなとか、やや物騒な話題から始まるわけでございますが、それが存在するかしないかはまだ証明されていないのではないか、と言う立場を安全上取ることにする方も多いのではなかろうかとか、ぼんやり連想しつつ始まる、今日のゴブリンでございます。
神様が見ていますよ、とか言われて、鏡を覗き込むのはやめていただきたいのではありますが。いやまあ、神様みたいに可愛いとか言い出すよりは良いのでありましょうか?今日も元気可愛いですな。
物理的に存在しているかどうかはそれほど問題ではないのであろうかなとか、いると見立てて行動指針を決定しているという、影響があるということ自体が問題であるだけの話で合って、実在がどうのこうのと語るのはまた別のお話になる、のであろうかなとは認識しているわけでございますが。
強固にそれがあることを信じているからこそできる何かはあるのであろうかなとは予想できるわけであり、それが文化というものであるのであろうかなとか、理不尽ではあるわけでございますが、現実が結構そうであるからこその認められる概念であるとかなんとかは、言えそうではあります。
いてもいなくてもそれほど現状こちらに影響はないというような立場とか環境を整えることが大事であるのではなかろうかなとかは予想できるわけでございまして、何度か話題に出している神様ではありますが、現象としては興味がある、程度の方が健全な付き合いではなかろうかなとか、どっぷりと依存してしまうような対象としてみると、これは、いわゆる、駄目な人に騙されて貢いでいるような、見立てになってしまうのではなかろうかとか、本人が幸せならば良いのではという意見は、ある意味正しそうではあります。
こちらにまで影響が及ばなければよろしいという立場で動くことが肝要にして寛容なのではなかろうかという予想もできるわけでございますが、それを信じていないものを一方的に敵視してしまうとこれはまあ、迷惑であるとか、困るとかの分類になってしまうのであろうかなとか、距離を取ることを薦めることになるわけであり、ただ、これが肉親とかになるとさらに面倒臭さがますのであろうかなとか。
安寧を得るためには適切な距離をおくことが必要になるのであろうかなとか、これは血のつながりに留まらず、誰でも同じでありまして、孤独になることが救いであるというような流れに環境がなっている、可能性があるのではなかろうかなとか、緩いつながりくらいでよろしいのではなかろうかとか、明るく家族的な職場という絶望を煮詰めたような環境はやはりよろしくなかったのであろうかなとか。
基本悪意を感じてしまうことが多いのであろうかなとか、生来人は悪であるからして善に振る舞うためには知識とか教養とか学習が必要であるという思想がございますが、それを踏まえて、距離を適切に取ることが必要であるのではなかろうかとか、感染症が蔓延した世の中で、無理なくそれができるようになったのは、不幸中の幸ではなかろうかとかぼんやり連想するわけでございます。
意思疎通はまず行えないものだと、奇跡的に話が通じてもそれは一過性のものであり、持続はしないものであるという認識であると安全度が増すのではなかろうかなとか、予想するわけでございまして、信頼することは大事ではあるけれども信用してはいけないとか、もしくは逆であるのであろうかとか、必ずいつかは失敗するという心持ちで挑む、任せることが大事であるのであろうかなとか。
いやまあ、ここで失敗されると破滅するだけなんですけどね、という軽い気持ちで信頼してしまうくらいが丁度いいのかもしれないとか、そういう願望があるのかという話ではありますが、社会全体でみて、どこかで元が取れる、収支が合うのであるならば、実のところ個人の浮き沈みはそれほど大したことではないとも取れてしまうわけであり、この辺り、全体主義の流れがどこか残っているのであろうかなとか。
群れで生きる生き物であるならば、その弱い部分を犠牲とか資源に変えて全体が生き残るように結果的になってきたので、ある意味自然な流れではあるのであろうかなとか、そこを肯定させるための宗教であるのであろうかなとか、連想を発散させておしまいです。
「親族が集まるとか物騒すぎるので今年もやりません」
「季節の手紙のやりとりくらいで十分ですよね」
「では年末年始はそのようにいたします”旦那様””奥様”」




