1931_そこだ。どこです?2回目
振り返ってみるまでが通しの冗談でありまして、好きなやりとりいは延々と繰り返して使いたくなるような流れがあるのではなかろうかなとか、そのように脳みそが作り替えられているのではなかろうかなとか、これが下品なやりとりが常道化するようになっていると、悲惨な結果になるのではなかろうかとか、環境にもよるのであろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
こう、意味不明なやりとりが妙につぼに入ることがございますよね、幼児には。いやつられて笑いますけれども、我に還る瞬間は虚無になるのではございませんでしょうか?今日も元気可愛いですな。
漫才の優秀者を決める大会とかがあるようでございますが、これは若手しか参加できないようでございまして、いや、こうなんと申しましょうか、それはそれで需要はあるのでありましょうが、往年の伝統芸と申しますか名人と呼ばれるような者達がそれでも切磋琢磨して競い合うような大会もまた見たいような気がいたしますので、ぜひ企画していただきたいようなことを思考するわけでございます。
予算の問題で、大御所をたくさん持ってこれないという現実は見えてしまうわけではございますが、こう、趣味で集めて競わせてみるとかはやってみたい企画ではあるわけでございまして、芸がみたいのであるならば、それなりの予算をかけなければならないという理屈もわかるわけでございますので、そこはそれ、潤沢に広く薄く集めてみれば良いのではなかろうかなとか、取りまとめが難しそうではございますが。
こう、巨大な建物を押さえておきまして、そこに各界の著名人というか腕の良い芸人を集めて、接待しつつ、鑑賞するような出し物を企画すると、楽しそうではあるのではなかろうかなとか、一般客と、富裕客を同時に集めてしまうようなやり口であるのではなかろうかなとか、余裕のある演目で、こう、数ヶ月か、年を通して入れ替わり立ち替わりで、出し物をするという、寄席に近いのではありますが、ここに来れば芸が鑑賞できるという、箱を作るわけで。
ただ、それは現実にある必要はなく、電子媒体で、web上で作り上げても良いのであろうかなとか、しかもそれは、ご本人でなくともよく、いやまあ、むしろお亡くなりになって長い芸人の著作権が切れたようなもので、やってみると経費が浮くのであろうかなとか、こう数百年前の名人を復活させてみましたとか。
実際に目の前で見たことがないので、どうやってもわからないであろうとか、形態模写芸の定番を、電子的にやってみるわけでございまして、これは結構商売になるのではなかろうかなとか、もっと遡ってみるならば、有名な宗教家の演説というか、こう説話とかを流してみるのも良いのではなかろうかとか、あのお方はこの時、このように発言した、のではなかろうか、こうだったのではなかろうか劇場のような、感じで演出してみるわけでございまして。
それを現代的に、音楽とかを利用して、演出していくわけでありますね、こう、背景とか被写体の写し方とかにも技巧を凝らして、さらには、現代的な言い回しやら韻を踏むやり口を駆使して、格好良く加工するわけでございまして、実際にすでにどこぞの宗教団体はやられている可能性はあるかなとか、予想するわけでございますが、途端に怪しく聞こえてしまうという問題はありそうではありますな。
存在感のある、思わず拝んでしまいたくなるような雰囲気を作り出してしまうわけでございまして、それに伝統をでっち上げてしまうわけでございますね、容姿を調整して今風に受け入れられるようにしてしまって、ある意味宗教的な何かにしてしまうわけでございます、こう、芸人が神様のような感じに転換させてしまうわけでございますね。
伝統芸能というものはつまりはそのようなものではなかろうかなとか、崇め奉ってしまって、祈る対象にしてしまうような感覚なのではなかろうかなとか、尊いという感傷は今では少し安くなったような印象を持たされてしまっているのではなかろうかという疑問はありますけど、年寄りには効くのではなかろうかとか、昔からあると錯覚させることが大事なのかもしれないとか、過去の捏造は意外とどうにか印象操作でなんとでもなることは、昨今の番組で証明できたわけであり、漫才を宗教的なものにまで引き上げることも不可能ではないとかなんとか妄言を吐きつつおしまいです。
「掛け合い漫才で諭してくる宗教はありそうではありますね」
「わかりやすいという点では漫才風なものは良いかもしれません」
「お釈迦様違うか、いやそれはお釈迦様やないけーとかですか?”旦那様”
ロン毛とパンチとかおられましたな、大御所様が”奥様”」




