1918_やりがいのある人生、やるかやられるか。
他人の邪魔をすることに楽しみを見出す人格はそれほど珍しくはなく、相手の損がこちらの得になる場合が多いわけでございまして、資源の確保をしていくという話なのであろうかなとは想像できるわけでございます、ただその収支があっていないのではなかろうかとか客観的に見られる事象もあるわけでございまして、ここは素直に目に見える有利不利を超えた何かがその人格の中にはあるのであろうかなとか、ぼんやり想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
つまりは悪戯は楽しいという話なのでありましょうか、いやまあ、楽しそうではありますが、後片付けは手伝ってくださいませね?今日も元気可愛いですね。
悪意と言いますか、とにかく他の人格が悲しい思いをする、否定的な感情を持つことが楽しいという性質の方は結構存在するわけでございまして、どうしてそのようなことをするのですかと尋ねたときに堂々と楽しいからですと答えられてしまって、会話が終了してしまうこともありそうではあるかなとか。
一方的に安全な場所からそれを成して快楽を得るやり口が好きな方もおられますし、殴り返されるかもしれない危険を楽しむ方もいそうではありますし、この悪徳を楽しむ種類にも色々とありそうではあるかなとか予想できるわけでございますが、総じて、距離を取る必要があるかなとか。
そこを騙して、取り繕って、誤魔化して、そばにいたりするのであろうかなとかいやまあ、大体の人の中にはそのような人格が少なからず存在する可能性が高いのではなかろうかという予想もできるわけであり、それがたまに稀によく、時と場合が揃った時に顔を出したりもするのであろうかなとか、魔が刺すというものであるのであろうかなとも想像できるわけでございます。
その人格が大半を占めている方々はかなり生活が難しいのではなかろうかなとかいやまあ、かなり上手くやって露見しないように悪事を働くような方がいる可能性はあるので、実は深く静かに増植している可能性はあるのであろうかなとかそれはそれで怖いものがありますが、隠れていることに中力しているのであるならば、被害は少ない可能性が高いのであろうかなとか。
爆発的に後先を考えずに行動する悪党の方が、悪いことを快感に感じるような方が、それもまあ、自分が破滅的になることすら快感に感じるような方が、ことを起こすと被害が甚大になると考えると、ある程度小賢しく、隠れていたずらをする程度の方向性へと向かわせた方が、社会全体としては安全度が高くなる、可能性があるわけであろうかなとか。
息抜き的に何か悪事をするものを細かく取り締まることの是非とかであるのであろうかとか、いやまあ、当人にとっては悲惨なことであることもまた多いのであるので、最終的にはそれを無くする方向へと進むべきではあるのであろうかなとか、いやさ、それは文化的な資質であるのでむしろ保護するべき悪徳ではなかろうかとか、色々と思考してみるわけでございますが、きちんと制御できるものでもないのであろうかなとか。
明文化した時点で効力がなくなるような、そのような安全装置なのかもしれないとか、抑圧を程よく抜くための何かが必要なのであろうかなとか、いやまあ、自然にそのようなものを見つけて利用している場合もありそうではありますが、ここが微笑ましい程度に収まってくれるように、環境を整える必要があるのであろうかなとか。
その感情はいつか捨てなければ成長できませんよという言葉は、かなり横暴ではあるわけでございますが、成長という言葉で誤魔化されている可能性は高そうでございまして、あれは別に良い方向へと変わっているのではなく、むしろ色々切り捨て行っている状態なのであることを認識しているのではなかろうかなとか。
諦めることが成長なのでありまして、つまりはそれは無くなっていくことを肯定的に捉えるための誤魔化しであるのであろうかなとか、いやまあ、実のところ自然にそれに対する執着が薄れていくことは大半が確かであるわけでございまして、ことさらに消えさせることはむしろ労力の無駄ではなかろうかなとか、消えない思いもあるとか、言わせておけば、実は無害なのではなかろうかとか、語弊がある言葉を吐いておしまいです。
「神様を捨てることはできない、けど、貶めることはできるのですよね」
「自然に感情への重みづけは減っていく、とは思うのですよね」
「無関心になることはできるでしょうな”旦那様”
慣れると揺るがなくなりますからな、年の功ですか”奥様”」




