1917_下呂中呂上呂、水やり。
抗体が悪さをしたということにして、熱に浮かされたふりをすることによって抑圧された精神を解き放つというのはどうであろうかなとか、副反応でお祭りをするような感覚でありましょうか、苦しんでしまうのであるならばそれを楽しみに変えれば良いとかなんとか不謹慎であるけれども文化的に歴史を重ねれば伝統になりそうな気がいたします、とかなんとか言いながら始まる今日のゴブリンでございます。まだ少し身体がだるい気がするのですな。
お注射は実はそれほど痛くないのですよ?気持ち良くなるかどうかはまた別の話というか、そうなったら薬剤がやばいので教えてください。今日も元気かわいいですな。
当然というかあるかも知れないものが実際に有った、存在したということを証明したとか発見したとかの場合、あまり驚きは少ないのであろうかなとか、そこにあるであろうなということが判明したので、やっぱりそうであったのかと納得するくらいの衝撃であるのであろうかなとか、いやまあそれはそれで感動するとか興奮するとか、感情が動かされるものはあるとは予想できるわけでございますが。
予想外を求めているのであるならそれは失敗であるのかというと、どうなのであろうかなとか、それを外すことを快感に思うのであるならば、予定通りに行くことを積み重ねていかなければならないのであろうかとか、感情を動かすためには、まずは平静を取り戻さなければならないとか、いやまあ、ただそれを維持しておけば良いのであろうかなとか。
そもそも想定外を楽しむ思考やら嗜好の持ち主は少ないのではなかろうかという予想もあるわけでございまして、やっぱりそうであったという安心感から笑いをうむのであろうかなとか、予定調和こそが美しいとか好ましいという話ではあるのではなかろうかとか、いやまあ、伏線なしに何事かに巻き込まれる現実もないわけではないわけですが、だから現実が面白くないのであろうかなとかも。
そのようなこと予想できないに決まっているではないですかと発言しても、あなたの立場ならそれを想定しなければならなかったのではないかと責任を追求される場合もありそうであり、それを見越しての高級取りで有った可能性もあるわけでございますが、そこまではもらっていませんという、反論もできそうではあるかなとか予想するわけでございます。
意外と先のことを考えずに行動している人格が多いのではなかろうかなという予想やら、観測はできるわけでございまして、つまり予想外なことが結構多く発生している可能性が高いのではなかろうかとか世間では。いやまあ、想像すらしなければ予想外という驚きもないのであるから、瞬間瞬間いつも驚いている可能性はあるかなとは、こう想像できるわけでございまして、ある意味幸せな生き方ではなかろうかとか、予想するわけでございます。
どうしてこうなったのでしょうか?という疑問しか抱かない流れはこれは周囲を含めて困ることになるのではなかろうかなとか、ある程度の予想やら展開の道筋やらを客観的に予測しておいて、行動した方が良いのであろうかなとか、ただ、他人が関わるとこれはもうどうしようもないのではなかろうかという話にはなるわけでございまして。
対話と申しますか、対人が難しいのは、必ず誤解やら齟齬やら共通認識の不同一化があるからであろうかなとか、そこがあるからこそ、新しい発見やら展開も生まれるわけではございますが、当事者同士ではそこまで達観できず、後悔してしまう流れも生まれるのであろうかなとか、いやまあ、齟齬ができるのは当たり前であるので、その対応をする技術を磨いた方が建設的ではあるのかとか、予想するわけでございます。
間違いや勘違いや失敗は発生して当たり前の事象であるわけでございまして、それをどう対応するかの練習やら技術やらを鍛えることが現実的であるのであろうかなとか、いやまあ、まずは構造から見直して、致命的なそれが発生しないようにする行動をするとよいという話もあるわけでございまして、で、その改革は大体失敗するわけです、入れ子構造かなとか、つぶやいておしまいです。
「失敗をしない人などいないという事実とどう向き合わせるかだな」
「成功を生み出すためにはそれ以外を積み重ねる必要があるとか?」
「全部神様のせいとするやり口はありそうではありますな”旦那様”
そうでないことが判明しただけで失敗ではないとかですな”奥様”」




