1915_ちゃレンジ、挑戦有事。
主義主張の差であったはずである分断が、既得権益の維持に変化していったわけでございまして、変わることが即座に身の破滅に繋がりかねない管理者の保身が優先されるようになった時点で、色々と手遅れになっているのではなかろうかなとか、ぼんやり想像しつつ、いやでも遅れてもなんとかしていかなければさらに悪くなるだけであるものな、とか、諦めつつ動く方々を想像しながら始まる今日のゴブリンでございます。
いつかは片付けなければならないと知ってはいましたけど、目を逸らしていましたね、ええ、今がその時です、お片付けをしましょう。今日も元気可愛いですな。
相応の報酬がなければ政治やら管理やらは健全にできないわけであり、それは貰いすぎでも足らなすぎでも困るわけでございますが、その塩梅を調整する、客観的に判断することもまた難しく、不正による集金よりも報酬が高ければ均衡するという話ではありますが、その抜け道をどう防いでいくのかとかもまた問題ではあるのではなかろうかなとか、人格に頼る構造はどうにもこうにも弱いわけでございますれば。
人の良心を過信してはいけないと言いますか、そのようなものは環境によって用意に無視されるものであるわけでございまして、生き残るためには仕方がないとか、どうやってもこうするしかない流れになってしまうこともあるわけでございまして、そこを押しとどめるには少し威力が足りていないのかも知れないとか。
そのような切羽詰まった状態に追い込まれないように構造を構築することが肝要ではあるわけでございますが、危機的状況というものは、それになってみなければはっきりと形が見えてこなく、また対策も取りづらいわけであり、基本手遅れである場合が多いのであろうかなと、つまりは次回はうまくやろうという話になりがちであり、今ここにある理不尽は、どうにもできない場合が多そうではあるわけでございます。
ただそれすらも教訓にせずに忘れ去られてしまうこともありそうな話ではあり、問題を問題として認識させることに一定の価値があることもまた確かではあるわけでございまして、この辺りどれだけしつこいのかと呆れられるくらいには活動しておいた方が良い場面もあるのであろうかなとか。
その活動が純粋な利益獲得のための、商売になってしまう流れになることもまたそれほど不自然ではなく、生存戦略のための資源確保という話が根底に来ることが自然なのであろうかなとか、利用するといえば言い方は悪いかも知れませんが、相互に関係しあっているとかなんとかの、共生に近い組み合わせもありそうではあるのであろうかなとか、予想するわけではございまして。
失うことの恐怖によって行動が抑制されるのであるならば、まずは与えてみなければならないのであろうかなとか、権利というものはそのように使われる概念ではないのかも知れませんが、結果としてその役割を果たしている、のではなかろうかとか想像でき、そうであるならば、なかなかに悪辣なやり口であるとか言えてしまうことろに、救いが感じられないわけでございまして。
詐欺じゃないかという話ではあるけれども、詐術ではあるのであろうかなとか、それはそもそも時間稼ぎの誤魔化しであるわけでございまして、根本的な解決には至らないからであり、わかっているけれども騙さざるを得ないとか、そのような事情が見え隠れする、ような気がするわけでございまして、つまるところ、保身というか、自己生存の戦略が重なっているだけであるのであろうかなとか。
では自己犠牲をしてまで群れを生かす戦略をとる人格は何であろうかなとかという話にもなるわけでございますが、客観的に観察すると、それは騙されている、誤魔化されている、促されている、誘導されている、結果である場合なのではなかろうかなとか、つまりは他の生存戦略に利用されているのであるし、そのことこ知らないか、知っていても、受け入れてしまう下地を持っているように学習している結果であるのではなかろうかなとか、運が悪いという話になるのであろうかなとか、いやまあ、結構救いがないような気がする、話まで連想しておいておしまいです。
「別に神様は生贄を求めていないのですよね」
「管理者から引退した後の安全が保証されればまだマシになるかなと」
「大体は人が利用するだけではありますな”旦那様”
非人道的でも管理側だと妥当な判断であることもありますからな”奥様”」




