1912_元気があればなんともかんとも。
筋肉質の格闘家が半裸で叫ぶ映像は卑猥ではなかろうかなとかそのような意見は出なかったのであろうかなとか、その様子に美しさは感じられても、艶やかさはないというか色っぽくはないという判断であったのであろうけれどもそれに対して反応する層もいるのではなかろうかとか、ここが少数であるから無視して良いのであろうかとなるのであろうかなとか、いやまあ、隔離すればいいのかとか見なければ良いのかという話になるのであろうかなとか、ぐるぐる何か思考を回しながら始まる今日のゴブリンでございます。
なんでもしでかすくらい元気ではありますな。今日も元気可愛いですね。
少数派の意見をどれだけ黙殺すれば良いのかという度合いはあるのではなかろうかなとか、それは場合と申しますか内容によるのであろうかとか、多数派が幸せになるならば否定しても良いとか犠牲になっても良いという話ではありますが、その幸せが短絡てにすぎる、長期的には不幸せにつながるのであるならば、その少ない意見というものは、妥当なものであることにならないのであろうかなとか。
弱いから守ってほしいのではなく、それが面倒臭くとも遵守していかなければ全体に多大な悪影響を及ぼすのではなかろうかなというそういうお話である場合もあり、ただそれも一緒に最大多数の最大幸福を目指すというお題目にひきつぶされる可能性があるのであろうかなとか、今更何を当然なことをという話ではありそうではございまして。
自分の生きている間、自分の周囲が幸せであれば良い、利益が得られれば良いということを、上手に隠して行動することが頭が良いということであるのではなかろうかなとか、自分のことしか考えていないことを指摘される、見抜かれることを防ぎつつ、最大の利益を享受するようなやり口が、結構多いのであろうかなとか。
そこを面倒くさがって偽装しなければ結局のところ何も得られないという構造になっているのであろうかと、いやまあ、偽装するにしてもある程度、社会貢献というか、個人がいなくなった後のことも考慮して行動するのであるならば、良い同調圧力ではなかろうかなとも予想できるわけでございまして。
均衡がどう保たれているかが問題なのであろうかなとか、生き物としては自分の生存を第一に考えることが自然で真っ当であるわけでありますが、それのみを主張してしまうと、排除の対象になりかねないわけであり、そこをどのように妥協するのかが知恵となるのであろうかなとか。
協力してことを成せば利益が大きくなるわけであるけれども、その輪に入れる容量が決まっているのであるならば、外れるものに負担を押し付けることになるのではなかろうかとか、その状態は短い期間では枠内の利益を最大化させるけれども、結局のところ市場が閉じてしまって、長期的には衰退するのであろうかなとか。
相互に依存するような関係を作り出す方が健全であるのであろうかなとか、弱いということだけで排除するのではなくそれを利用する方向で、少数派を活かすやり口をという発想になる方が、未来への期待度が高くなる、のかもしれないとか、この辺りは既に議論が重ねられているのであろうかなとは、思考するわけで。
多様性の確保という面から見ても、弱さはその一面であり、弱いということに価値があるというか、それは本当に弱いのか、環境に合っていないのか、そもそもそれが生きられない、環境の方が違っているのではなかろうかという疑問を抱くことが結構大事で合ったり、おもしろかったりするのであろうかな。
適応しすぎている個体しかいなければそれは脆いということになりかねないわけであり、ある意味、環境そのものが脆いという側面を持っているわけでありますがゆえに、その辺りを考慮して、思考していかなければならないのではありますが、どうにもこうにも目の前のことに夢中になりすぎてしまうことが多い、のであろうかなとか。
いやまあ、とりあえず目の前の何かをどうにかしなければ、明日どころか、次の瞬間に消えてしまう可能性があるという切羽詰まった状態が問題なのであるとか、言ってしまうと、身も蓋もないのであろうなぁとか、おしまいです。
「隣人を愛せよ、という話ではあるのですよね」
「論理的だけで生きられるほど人間は賢くないという問題がありますね」
「どのように思いやるのかも大事ではありますな”旦那様”
過信しないというのは大切ではあります”奥様”」




