1909_一つ、人と比較するのではないな、力持ち。
相対的な評価はしかし性格を決定づけるには良いものであり、ある程度は比較してみても良いのではなかろうかなとかは、思考することはあります、劣っているからどうなのであるという話ではありますが、どのような性能でも今この時にここで何かができるのはその人格しかいないという現実を、知ったならば、あまり気にしないのではなかろうかなとか、自分を知ってれば比較されても気にならないということでありましょうか、などとぼんやり自己肯定しながら始まる今日のゴブリンでございます。
それにはそれができる、できない、あなたにはそれができる、できない、そしてそれは、時間と空間を隔てれば意味がないのですよね、はい、悔しいからできるようになりたいは、また別のお話ではありますね。今日も元気可愛いですね。
絶対評価も相対評価も、どちらかひとつが際立って良いものでなく、そもそも評価というものが、かなり正確さやら公平さに欠けているものであるという認識は持っていた方が良いわけでございまして、なぜならそれが完璧になされているのであるなら、社会はもう少し良いものになっているからであり。
要は言葉として、便利に使い倒されている可能性が大いにあるものであり、時と場合によって振るわれる言葉とか概念の暴力に近いものである、わけでありまして、これは他の全てのわかりやすい言葉にも言えるわけでありますが、そこまで一喜一憂することはなく、ただ淡々と利用するが良い、場合もあるわけでございます。
優秀な人材を集めたいので比較評価したいという話は、それほど不自然ではないわけでありますが、その評価そのものに信頼が置けるのかというと実はそれほどでもないという認識がある、のかもしれないとか、もちろん最低限これだけはできてほしいという願望を読み取ってもらう仕組みはありそうではあるわけでございますが、多様性が大事であることも、反面、判明しているわけでございまして。
ざっくりとざるですくうようにして人材を集めて、学習、指導していって立ち位置を決めていく、くらいの体力がなければ、真っ当な社会にはならない、のではなかろうかなとか、なぜならばやはり正当な評価が難しい上に、ある程度それの精度を上げるには時間がかかるからであるわけで。
ではその体力はどこから生むことができるのかというと、これはまあ、社会全体で少しずつ融通していかなければならないという話ではあるわけであり、不具合を徐々に徐々に少なくしていき、摩擦を減らし、障害を減らし、その余裕分で、学習時間やら思考誘導やらに力を入れていく、資源の無駄な消費を減らして、その分を広く薄く全体の活力に注ぎ込むような感覚でありましょうか。
一息に何もかもうまくいくようなことは、滅多にはなく、基本気が付かないような状況変化が徐々に徐々に環境改善されることによって行われていくわけであり、そこを評価できるかどうかが、社会全体の着実な成長につながる、のではなかろうかとは、意外な意見でもなく、普通に言われていることであるわけでして。
ただ、やはり目に見えない、目立たないからこそ、意識に上がりにくいのであろうかなとか、であるので、実感がなく、悪い方向へと向かう、場合もあるのではなかろうかとか、いやまあ、良い悪いがそもそも判断できないので、不安になるという話であるのであろうかなとか。
世の中を変化させているのは無意識であり、感知できないわずかな意識のずれの積み重ねである、可能性が高いわけであり、成功した改善は、いつの間にかそうなっていたという結果でしかみられず、そしてそれは、なかなかに評価されないわけではありますが、実は評価賞賛されるような改革は失敗である可能性もあるわけであり、なかなかに塩梅が難しいのではなかろうかなとか。
目立たない改善を淡々と全ての人が自然に成していけるような構造が必要であり、実のところ、目立った評価は必要ではないのかもしれないとか、些細なそれが積み重なる社会が、結局のところ確実に、環境対応できるようになるのかもしれないとか、なんとかそれっぽいことを吐いておしまいです。
「当然であると言われると貶められた気にはなるわけですよ」
「ちょっと褒めるくらいが良いのではないかなと思います」
「自分で自分をちょっと褒めるくらいが良いのかなとは思いますな”旦那様”
学習現場ではその行為が大切になりそうではありますな”奥様”」




