1908_変態するエネルギー、蛹人。
一度全体を大きく作り直す必要があるわけでございますが、その熱量やら資源やらを元の姿での生存戦略に全部振り込んで仕舞えば、結構良い勝負をするのではなかろうかなという妄想をしてみるわけでございますが、よく考えると、哺乳類種は体内でそれら全てをこなしてから生まれてくるわけであり、その過程が母体の外にあるだけであるとみるとそれほど変でもないのであろうかなとか、ぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
芋虫のごとく布団にくるまって遊んでいるわけですね、本当に朝起きると虫になっていたとかであると、面白いどころではない文学作品風ではありますが。今日も元気可愛いですね。
そもそもどうしてそのような生体を獲得したのであろうかなとか、途中で姿が変わるような形であるわけでございますが、これはまあ、最初から、最後まで卵の中で成長するには戦略的に、熱量的に、資源的に無理があったから途中で止まってしまっていたとみるべきであろうかなとか、予想するわけでございまして。
おそらくは詳しい方やら専門家やら研究者さんやらは一定の答えを導き出しているのでありましょうし、webで調べればもう少し詳しくわかるのであろうけれども、ここは無駄話でありますので、あえて見当違いなあたりを擦ってみて楽しんでいこうかと思考するくだり、いつものですな。
体を最適解にした後で誕生する時間と資源が得られなかったから、途中で変態するのであるかもしれず、いやまあ、本来は変態が普通であったのであるけれども、母体が強靭になったので、完成体の幼体にした後で活動を開始するようになったとかであるのであろうかなとか、生き物としての生存戦略が、昆虫やそれ以外ではかなり違ってきているのであるかもしれず。
それは意図してやっているのではなく結果としてそうなっているだけであるわけでございまして、どこぞの大いなる意志が働いているわけではなく、自然に偶然になった結果ではあるけれども、結果だけをみると不思議であり、過程を想像できなくてさらに不可思議である、ような気分にさせられるわけでございまして。
どこで別れたのかを調べつつ、いやまあ、どうにでも分岐はするのであろうかなとか、形質がどうして受け継がれていくのか、そもそも何をきっかけに別れたのであろうかとか、分岐点ではさらに別の可能性もあったのではなかろうかとか、いやさそうであるならば、さらに今この時も何かしらの分かれ道にいるのではなかろうかとか。
進化というか変質、変化のためには、種そのものが若く原始的でなければならないのであろうかなという予想ができるわけでございまして、現状すでに捨て去ってしまっている可能性からの進化はなし得ないのではなかろうかという予想もまたできるわけでございますが、ないのであるならば、付け加えれば良いのではという発想に至るとかなり狂的ではあるかなとか。
倫理観を緩やかに無視していくならば、今でも進化は人工的に行うことができるのであろうかとか、いやそもそもその種を用意することが容易ではないという話になるのではなかろうかとか、面白いからという理屈だけでそれをなすような、人格がまず現れなければならないのかもしれないとか、連想していくわけです。
必要があるから進化していったのではなく、結果としてそうなったという認識がなければ、筋道を見誤ることになるのではなかろうかなという予想はあるわけでございまして、では今人類は進化するべきであるのかという議論では、そもそも目指すところが違い、結果として進化することはあるかなという話ではなかろうかなとか、その発想が浮かぶことがすでに結果である、ような印象を受けるわけであり。
文化的な背景が移り変わっていることがすでに結果的な進化となっている可能性はあるのであろうかなとか、目に見える、身体的特徴的進化ではなくそうではない、脳みそに乗せられている何かの、一連の思考やら情報のやり取りやら、それそのものが、進化していった結果がこうである、可能性はありそうではあるかなとか、ぼんやりと妄想したあたりで、おしまいです。
「そのうちに完成形の思考を持ったまま新生する生命になるのでしょうかね?」
「母体の中で思考の幼年体が完成した後に活動を開始するわけですね」
「成長の過程が無いと、可愛さが足りないくなりそうではありますな”旦那様”
肉体もある程度成長して誕生すればバランスが良いですな”奥様”」




