1905_残って鋸、かけるはカンナ。
鉋という名前の人物はいそうでいないわけでありますか、音だけはそうであるという感じは多そうではございますが、大工道具を発想のもとにしている名前という方は多いのでありましょうか、げんのうさんとか、墨壺さんとか、おおよそ道具が名前になっている氏族とかはありそうではあります。職能集団がそのまま家名になったような感じでしょうか、反社会的家業がそのまま家名になると後々問題になりそうではありますが、源氏とか平家とか?いやそれは物議を醸すであろうかな、などとぼんやり連想しつつ始まる今日のゴブリンでございます。
人形遊びにその名前をつけるとかなり悲惨な結果になりそうな展開を予想してしまうわけでございますな、いえ知っている人だけにわかることではございますが。今日も元気可愛いですな。
何が名前になるのかがわからない可能性はあるのであろうかと、代名詞的な何かが本名のように扱われる可能性はなくはなく、ただそれが悪意に触れていると色々と問題がありそうではあるわけであり、一応由来は考えてつけていかなければならないのであろうかなとか予想できるわけであります。
がしかし、それでも流布してしまう名前はあるわけでございましてそれにどう対応するのかというと、これが意外と難しいのではなかろうかなとか、少ない範囲でのことならば意識づけを行ってやれば収まるような気がしますが、善意で上書きするやり口とどちらが効率的かというと、これは場合によるのであろうかなとか。
逆に特に優劣好悪のない普通の名詞であったとしても、その実態というか表すものが否定的な印象を与えるような行為やら状態であったがために、よろしくない印象になることもあるわけでございまして、ではそれの名称を変更すれば、万事収まるのであるかというと、これもまた別の問題でありまして。
ただ、呪い的な何かを変えることは可能なのであるかなとか、言い方を変えることによって、肯定的に捉えることができるとか、印象を逸らすことができるとかそのような話にも繋がるわけであり、一概に名称だけを変えて何になるのであろうかという断言はされない方が良いかもしれないとは、想像できるわけでございます。
複合的に効果を期待していくやり口であるのであろうかなとか、小さなことでも組み合わせれば効果が高くなるようなことは、それほど珍しくはないわけでございまして、この辺り、改造する方の腕次第ということになるのではなかろうかなとか、そもそも既存のものを組み合わせて新しい何かを作り出すことはそれほど珍しいことではないわけでございますし。
意味を何かで上書きしてしまうことは必要であるのであろうかなとか、忘れることも有効であるわけでございまして、忘却することで救われる何かもあるのであろうかなとは予想できるわけでございます。一方それを忘れて過ちを繰り返してはいけないという流れもあるわけでございますが、これはもう、その場その場で判断するしかない案件であるのではなかろうかなとか。
否定することによって、なされる文化は確かにあるわけでございますが、肯定によるそれに比べてると、簡単に成せるだけに効果が薄いという話にはなるのであろうかなとか、作り出すよりも壊す方が簡単であり、肯定するよりも否定する方が簡単である、ということであるのであろうかなとか、で、簡単であるなら、数をこなせるので、業績に上げやすいというものがあるのであろうかとか。
そのままにしておけば、介入の余地がないわけであり、否定から入れば、自分の仕事ができ、価値観を創出できる、のではなかろうかという発想があるのであろうかなとは、予想できるわけでございまして、つまるところ熱量があまり必要とされないからこそ、批判が多くみられるのであろうかなとか。
なのであまり評判を気にしてはいけないのではなかろうかとか、特に創作系の発信については、話半分で考えてもまだ足りない可能性があるのではあろうかとか、ほぼ全ての方にこれはよろしくないと言われても、わずかでも気に入った方が存在するならば、それはそれで価値があるのか、とか、いやまあ、むしろ全てに否定される創作はそれはそれで見てみたいような、そんな気になってきたあたりで、おしまいです。
「神の言葉を伝える存在が苗字になったりするのでしょうかね?」
「否定ではなく批判とかであるなら、別によろしいのでは?」
「キリストって、苗字でございましたっけかな”旦那様”
建設的な議論は有益ではあると思いますな”奥様”」




